前回書いた時から10日ほどだが、その間いつの間にかあっという間にモヤモヤしていたものが晴れてしまう。なんてあっさり。もう惑わされないぞ!と思う。今度あったら君は最低だからと言おう。一度死んだ方がいい。

 

 

姉が流産したのだと母から聞いた。妊娠したかもと思って病院に行ってわかったらしい。それをメールで知って、私は流産することもない、できないんだなという思いが胸をぎゅうぎゅうにしめつけ口や目から何か出そうになった。自分にそれは訪れない、それは自分の決めつけであり、それでいて決めつけだからとあるかもしれない可能性を見ることももう無残でしかなく、決めつけは自然と率直な事実として私の中を占めている。

自分はなにかを得られないのだ、という自分の欠陥がこわいのだろうか、と思う。今までにもいくつもいくつも100はゆうに超えるだろう自分に得られない何か、得られない欠陥をする自分を見てきた。子供を持てないことに対してもそれは同じだと思う。別に世間や家族からのプレッシャーとか視線とかは関係ないように思う。そもそも社会とそんな接点してないのでそうゆうものからは割と一般よりは解放されてしまっている気がするし。ただ、自分も持ってみたかったと思ったことがある以上、それはそもそも自分には成立し得ない、相手もいないという前提が成立していない以上、叶わないことなんだなあと思うと、なぜか、苦しく悲しくなる。

生理前で気分が揺らぎぎみだからかな、とか何でもかんでも生理の影響下によるものとほおることもできる。最近の生理前の症状はひどくて、まるで自分の体が生ゴミのくず入れみたいな感じだ。全身のだるさ、立っているのもしんどい、仕事なんてもってのほかの異様なねむさ、全身のかゆみ、背中や胸のあたりにできるニキビ、便秘がち、球体の上に板をのっけたその上にぐらぐらバランスを取ろうとしながら乗っているみたいな体のうわつき、など。自分の体が自分のものでなくなっていく。コントロールがない。なのでなるべく切断する。 

もう全部なかったことにすればいいかー、そうだな、うんうんといったような気持ちにさも簡単になれたりもする。そうゆうこともある。そんな風に気持ちはまるで別人になれるみたいに変わることができる。だから子供が欲しいと思うときがあったりするし、幸せになんてなれなくていいのだと思えるときもあるし、すべて全部うそで早くさっさと死にたいものだと思っていたりもする。自分のなかに確かなものなんてなに一つないだろう。だって、月だって満ちて欠けてはまた満ちて、白っぽく見えてると思ってたら黄身色になってたり、いつも同じ大きさだと思っていたら急に近づいたかのように巨大に見えたりしてるんだから、そりゃ人間の気持ちだっていくらだって移り変わるものだろう。

 

人を好きになるというのは、それはつまり仮定することなのではないかと思っている。好きかどうかなんてまずわからないものだ。なんせ好きということはこれ、という定義が少なくとも自分にはない。なので賭ける、これは好きということにしよう、と。好きではないという方に賭けることももちろんできる。好きも好きでないも仮定とすることによって一旦の身の置き場ができるので、自分としてはそれが割とわかりやすくしっくりくる気がする。

みんなそうじゃないのかな?そうじゃないなら、なぜ人は人を好きだと自分で理解できるのだろうか。恋愛としての好きは、こうゆうところが好き、として処理されるものとは違うのではないかと思う。そのようには簡単にイコールを出せないもの。その得体の知れなさそれ自体でもってしてもそれが好きという感情、とは判断をくだせない私は。

好きか、好きではないのか。それは他とは違う特別、特異として見ようとしてしまうから他の物事と同じように簡単に好き嫌いとして判断できないでいる。その状態は永遠に何かをかき混ぜ続けているようだ。疲れる。めんどくさくなる。なので、賭けるのだ。

 

 

昨日はユジク阿佐ヶ谷へ『A GHOST STORY』を見にいった。去年の公開時から気になっていて、見に行かなきゃと思いながら最近映画館にあまり行かなくなっていたので気が薄くなっていて、新宿でもすっかり見逃し、うわあと思っていたなんとか滑り込み。阿佐ヶ谷まで行くのはどこかなんとなく面倒に思ってしまうのだが、初めていったユジクはすごく居心地よくて東京だけど東京じゃないみたいな湯につかってるような心地の場所だった。うわあ、いいないいなあこんなとこの近所に住めたらなあ、とイチコロになる。

そして映画の方は、すごく良かった。最高に好きだった。何度も鳥肌がたっていて、見ている途中からなんでこんなに鳥肌が立つのか不思議だった。特に好きじゃない人も好きじゃない人もむしろ好きじゃない人もいるだろう、それくらいは予測がつく、だって私はすごく好きだったのだから、そんだけ好きと思う人がいる一方で好きじゃない人がいるのは当然だろうと思い至らないわけがない。なんだろうなこの極端へいくともう片方の極のことへも目配せがいってしまうみたいのってなんだろうな。何かを特別に好き、他とは違ってこれが好き、と思うことは強烈で、くさい野菜みたいなものなのかも知れない。

見終えてツイッターに感想を書いた。もう最近はツイッターに書くことが習慣のようになっている。しかしその字数制限にいつも悩まされる。けれど同時にその限りにおいて嘘を書いてはいけないのだと思い知る。嘘を、自分の言葉でないものを書くほどの余裕などないよということに緊張?が走る。自分が気になったことや、感じていたことなど、それらをそのままナマのまま俎上に載せるのはどうして簡単ではないのだろうか、ということはいつも不思議だ。

いったい何を覆い隠してしまうのか、何が覆い隠してしまうのか。何かもっともそれらしいことを語らねばならないと思ってしまうのだろうか。自分が見ているときに本当に気にしていたある細部たちのことなんかより、誰もが目にしていたであろうとこと、気軽に共有できるであろうものたちのことを大げさに語ろうとしていたりすることがある気がする。それは大衆というものに自分が流され、自ら流れようとしているのではないか。といったようなことを考えたりする。 

好きな人が他の人と付き合い始めたことを知らされたという友達が、これがいいんだと教えてくれたのが冬にわかれてのなんにもいらないという曲だった。その場で、本来ならいるはずのないその場にいた彼はスマホでその曲のYouTubeのMVのページを見せてくれた。それは、私もすぐにすんなりいいねと頷けるものだった。

君は、思いの届かなかった、私の知らない、君の好きな女の子のことを思ってこの曲を聞くのだろう。ということをこの曲を聞くたびに思わされている。この曲はすべてその女の子のために響いているのだろう。そして君は死にたくなっているだろうか。泣きたい気持ちになったまま泣けないでいるだろうか。私にとってこの曲は君が思う君を思う曲、だろうか。

なぜこんな曲を聞いてしまうんだろう。聞けば聞くだけ私はそこにいないことを思い知らされるのに。君が悲しめばいい。苦しめばいい。死にたくなればいい。そして救われたらいい。好きな女の子は恋人と別れて、君のもとにやってくる。そんな知らない誰かのことを勝手に想像して、私は誰かの不幸や幸せを願っている。どちらにしたって、私は結局関係がないのだ。私はそこにいないから。

何度何度、そんなことを思い知り、思い至れば忘れられるんだろう。わかってはいるはずなのに、それでも思い至るたびに胸が削がれるようにすっと消え去るような気配がするのはなぜなんだろう。その度にひやっとして、自分はなにもわかっていない、受け止めていないのではないかと虚しくなる。私はそこにいないこと。あと何度わかればいいのだろう。何度この壁にぶつかって、頭を打って、ゴンと自分にこうゆうことなんだよと教えさとせばいいのだろう。

 


冬にわかれて - なんにもいらない

最近はひとりで部屋にいると泣き出してしまう。その理由みたいなものはあまりはっきりとなくて、自分でもなんで泣くのかよくわからない。でも泣きたいのはわかるのだ。私は泣かないといられないのだということは、わかっている。

 

子どもの頃から、自分に不釣り合いなことは思ってはいけないと思っていた。不相応なことをイメージしてはいけないと、みずから禁止していた。それを必死で覆い隠して抑圧するために思ってきた。

自分には結婚なんて無理だ、ウエディングドレスなんて真っ白できらびやかなもの、私に似合うはずがないし着てはいけないもので、私みたいな人間が子どもを持ってはいけないんだと、自分で答えを導き出していた。それはいつだか思い出せないくらい子どもの頃からのことだ。

その解をひとりで見つけひとりで決めてひとりで信じてきた、それが私の守るべき信条だと。だから、もうずっとずっと、そう思ってきた。そう思うことは自然で、決められていること、かのように。

 

そして今になって、そう信じてきたことはそのまま現在までの真実、実際になっているのだと、ようやく気づく。自分に恋人ができなきのも、付き合ってもすぐ別れてしまうのも、人との出会いを積極的に求めないのも、結婚への過程がまっさらなのも、それは自分が子どもの頃から自分はそれらと無縁であるはず、あらねばならないと思い描いてきているからなのだろう。

それなのにふいに自分も幸せになりたい、好きな人と思い合って結婚したり子どもをもってみたりしたいと浮かれ思っても、それらはやってこないのだと、気づかされる。

 

それは結婚し出産する友人たちを見ていて、彼女たちは学生の頃から結婚することや出産することに対してポジティブな、というか、そうしたいのだという意思をイメージを持っていた、ということで気づかされたともいえる。もちろん誰しもが単純にそのルールにのっとるわけじゃないだろうけど、それでも、それは十分に現実的な実際的なことだと思える。

自分が思い描く夢や希望、したいことを実現させたいとこころのなかで思い描いていればこそできるものごとというのはあるだろう。願いをかなえることは自然と行動や思いとしてあらわれるものだろう。

そうか、私にはまずそれらがなかったではないか、と思う。ないのに、むしろ否定してきているのに、それが身体としてあらわれる、思いから身体へあふれでるということはあるわけがないのだと気づいた。そうか、そうだよな、と妙に納得してしまう。 

 

そして、それを思っては涙が眼球を覆ってしまうのだ。なぜ私はそんな風に思わねばならなかったのだろう。私はどうしてそんな風に思うことにしてしまったんだろう。なぜ、そんな風に思うことでしか生きられなかったのか。そんな風に思わずにいられたら、それは。

これはいったいなんなんだろう。むなしさ?かなしさ?うらみ?こうかい?ただ、私はこうゆう人間なのだとつきつけられ、どうしようもなく、手も届かない壁を前に仰向けになってしまう。

 

お前は幸せにはなれないのだと烙印を押されているのか、押したのは自分なのか。この自分の中にある矛盾。その矛盾にはとっくの前から気づいている。あまりにわかりやすく目の前に現れているものだ。

思っていることと、口に出ることはかけ離れている。本当に言いたいことと、行動で見せているものはまるで正反対だ。けれども他者にとっての本当は目に見え聞こえているものに過ぎない。私の中にある本当なんて、それは本当でもなんでもない、ないものだ。その剥離が私には息苦しい。ずっとそれに苦しんでいるのかと思うと、もう本当にずっと自分は子供のままなのだ。

 

私が心のどこかで何かを願い、誰かを待っているとするならば、それは、私が思ってることをそのまま言えて、伝えられて、その本当という恥ずかしさに満ちた自分の小ささや卑屈ささえも、うんそうだねと受け止めてくれるようなもの?人?なのではないだろうか。なんて、なんてなんてありきたりで傲慢な夢だろうか。そんな人はいないだろうと思うけど、それでも、それなのにありえるかもしれないいつかどこか何かを同時に想像せずにいられないというのは、つまり結局夢を見すぎているんだろうか。ずっと。ずっと見ているんだろうか。そのことが、こわくなる。

 

 

はてなダイアリーからブログへ移ってみた。関係ないがここ最近はずっと気分が沈み続けていて最悪だ。まあ10代の頃から1月2月はうつうつとなりやすいのは知っているから、いつものことだとはおもうけど、毎度毎度こんな気分にならなきゃいかんのかと思うと、生理が毎月くるのもめんどいけどこれもまためんどいな。いったいいつまで生きて続けるんだか。

でもまあそれでも毎日仕事には行き、ご飯作りたくないお風呂も入りたくないと思いながらどうにかやっているんだから働くという強制はすごいものだ。またお金を稼がねばならない、稼がねばこの生活を続けられないぞっという脅しも大きい。というかそこから逆説でいうと大学生の時はだらけることが許されていたから、守られていたから、気を病めることができてしまったというだけなのだろうか。なんだか、あほくさいな。私は、アルバイトで働くことさえできなかったが、もし、それが出来ていたら違ったんじゃないかと、30を過ぎてどこか夢見てしまう自分がいる。あらゆることに、当時の自分にはできなかったがいやもし出来ていたらという可能性に夢見てしまう、なんて、それは今の自分に充足していない、もの足りていないからだろうか。

どこかで何か変わりたいと思いながら、その手段?方法?が全然見つけられない。何もしていないから。変わりたいって、なんだろうな。私はずっとそれを願いながら、願っていれば誰かがやってくれると思っているんじゃなかろうか。そんなのは愚かだろうと思いながら、否定できないでいる。自分はこの先いったいどうやって生きることができるというんだろう。あまりにばくぜん。それでも稼いで生きているので、バカみたいだ。こんなバカでも生きていくことはできる。でも、それでは物足らず、おそれ、恥ずかしく思えてしまう。自分にみじめさを見出してしまう。いつまでたっても頭が悪く、知識の蓄えも、何かを解説することもできない。そして途端になんでこんな不細工な顔、姿形をしているのかとうなだれ始める。

いったい私は何が不満なのだか。自分には、不満だろう。不満ばかりに目を向けていても何もない。もうそれもそれで見飽きている。

 

 

もうやめよう、と思う人がいる。もし次会うことがあったのなら、もうこうゆうことはなしにしようと、言うべきなのではと思う。  -あれ?考えてみたら昔似たような場面があったな?その時はいわれる側だったかな?ー  そう、考えた。電子書籍吉野朔実の恋愛的瞬間という漫画で描かれてるように、さらっと、もう会うのはこれで最後にしましょと私も言いたい。単純にそれを見て、ああそう言うべきなんだろうと感化された。だって、その通りだ。

漫画で描かれてるのは何かと事情は違うが、特別に好きでもない人と寝て、この先もお互い特別に好きになる見込みもなくて、片方にはむしろ別れるつもりなんてさらさらない相手がいて、あああつらいなあと思った。そんなの胸に痛すぎるなあと、人の、漫画の話を見て思う。そうするとどこか自分のこの状況もまた重ねられ、同じようにこれは痛いものだと感じてしまった。客観的に見たら、たとえいくらそれでもいいなんて盲目に思ったって、いやいや、そんなのないよね、と思えてしまった。

言えたらなあ。でも言えないかなあ。どっちにしろ、結局それの選択をわざわざしなきゃいけないのは私で、も、その時点でめちゃくちゃめんどくさいな。めんどくさい奴に付き合ってるほど暇なのか、私。なんか一昨日くらいにどっかの星占いで端的にうお座は人に共感しやすくやさしいが、ルーズになりがち、と書かれててうわその通りだーーーと頭を抱えた。うお座はよく不倫に溺れやすいとか定番に書かれてて、私は不倫なんて一切興味ないし、結婚してる人、彼女いる人を好きになるとはないけどな、とずっと思っていた。あーでも優しさ=ルーズさで考えると不倫に陥るのもすんなりわかるかも、と思えたのだった。ううんん。