殺された遺体のニュースを聞くと、うらやましく思う自分がいる。私もそのようになれたら良いのではないかとふいに思いを寄せている。そのように扱われることが、なぜかどこか羨ましいということなのだろうか。老化して、病気になって、事故にあって、死ぬより、誰か知っているのか知らない人なのかに不条理に殺される分割されぞんざいな扱いを受けてモノと化した自分の死んだ身体の方がなぜか親近感を覚えてしまうような気がする。事故にあってバラバラになる、変化してしまうことも想像する。そのまま死ぬのか、助かるのかがわからない。電車のホームで入ってくる電車の前にとびだし、衝突したらどれだけ飛び散るのだろうか。ッパーンとはね散るのか。しかしひどい迷惑を人にかけるなあと思うので現実味がうすい。もののように扱われ終わる、終わった身体のことを結局はものとして見れるから親近感を抱けるに過ぎないのか。身体でなくなりたい、分節されたいのか。こっぱみじんになるのは望んでいない気がするのだ。人はみなこのような夢想をしているのかしら。

仕事は引き続きひまで、あさいさんは現場疲れがひどいのでまた早めに帰宅。ひどく暑いが冷房をずっとつけているのは寒い、つける、消す、を繰り返してしまう。めんどくさいしあほらしい。適温が持続されているところにいたい。読んでいたボルタンスキーのインタビュー本を読み終える。幼少期の頃からの家庭事情含めたところから制作、展示、キャリアについて通してふりかえったもの。基本的にボルタンスキーがひとりで喋り続けることで話があっちこっちいったりしつつ結局その喋っている時点は同時期、ある一つの地点なので言っていることは同じ、貫かれてしまっているというか。過去作を振り返っても、結局その当時の時の話ではなくなってしまっているわけだから、なんだか可愛げがない。あの時のあれは、こうだったんだ、と言ってしまうのは信ぴょう性に欠ける気がしてしまう。まあ誰だって日常的に過去に対してそういい加えることはあるわけだが、ボルタンスキーのそれはどうも胡散臭い感じもする。とはいえ本人だって自分の言ってることは嘘か本当かなんてわからない、混ざっているといったことを言ってるし、そんなことはどうでもいいって感じもするけど。もともとこの本も新美での展示がなんだかなあという感想だったからこそ読んでみるかという気になったので、近年のスタンスはこうゆう感じなんだなというのが掴めたので少しは納得した。作品の姿形が残るというより物語として自身が残されたいというのとかは、どこまで本気なんだろうな?と思ってしまう。

午後に上野で北海道旅行帰りの母と待ち合わせてお土産を受け取る。頼んでおいたのは六花亭のお菓子だけど、他にもあった。エキュートの中のカフェでお茶をする。コーヒーが酸っぱくて、酸っぱいのはそんなに好まない。コーヒーじゃない別の飲み物だと思ってしまう。嫌いというわけでもない。お昼を食べてなかったのでケーキを食べる。大した味じゃないだろうと予見しているので、口に入れて舌に乗ってもその延長というかむしろ味なんてないくらいの感覚で食べていることに気づく。生理が始まった感じもありお腹がかすかに痛い。つまらない気持ちで話を聞いてしまう。

別れてから中川政七商店であさいさんの奥さんへの誕生日プレゼントを買う。予定より金額が大きくなったが、千円くらいなら大して変わらないようなもので、金額にこだわることはもうどうでもよくなる。対応してくれた店員さんが男性だったのがまず珍しいが、少し関西弁ぽいイントネーションがあったので、そこだけ耳がピンと立ってしまうような感覚。けれど実際自分の耳はなんの動きも表していないだろう。ただ、ピンとするといった感覚だけが人間には残されているんだろうか。眼が大きい人で、眼が大きい人には眼に食われてしまいそうだなと思う。

他には大してこれといったこともせず終わる。また刺繍やろうかなとか考える。

私は自分が知らないことを知っている人というのにものすごく劣等感を感じてしまい、自分は何も知らないのだという焦りだったり、教養、知識のなさにひどく恥ずかしい気になり、果てにはそんな自分に落胆さえしてしまうのだが、これはずいぶん昔からそうなのか、それともここ数年のことなのか、いつの間にか始まっていたような、いやここ最近になってそのことに苛まれていることに気づいたような。でも自分でも嫌だなあと思うほどに露骨にそういったものを感じるようになったのってSNSのせいなんじゃない?とうっすら思う。もちろん全ての知らないことに対して思うわけじゃないけど、もとまと自分の頭の悪さや無知にたいして劣等感のある私には改めてその隙をつかれてしまうというような。自分が何もかも知れるわけはないと自分に言い聞かせながらも、そんなか細い声はすぐなかったことになる。しかしとりあえずそのように比較をしては自分の何も入っていない箱を見てショックを受けるという無意味感をやめたいが、そもそもなぜそんなことをせずにいられないものなのか。常に自ら進んで不安であろうとするのか、もしくは不安があるからそれを見つけにいくのか。満たすものがないこと、それはいつまでたっても満たされるはずがないのでは。

引き続き仕事はひまだった。なので14時すぎくらいには終わりになり、一度家へ帰ってもいいけどと思うがやめておく。池袋でタワレコに行きオウガの新譜を買い、パルコでヘアピンを買い、ドトールで本を読んだりする。西口のルミネのとこのドトールはみっちり席が埋まっており、みんなスマホやパソコンに魂もってかれてるみたいにがっちり席に固定している感じだったので諦めて地上に出た方の店舗へ行く。ドトールはどちらの店舗も別部屋で喫煙席を設けているが、禁煙席というか店内全体が入った時からとてもタバコ臭くて台無しだなと思う。モスに行けば良かったかもと思いつつドトールのかぼちゃタルトが食べたかった。でもなんか昔のより美味しくないと思ってしまう。がっかり。そうだ、と思ってapple musicでモーサムを聞こうと検索したらいつの間にかシングルもアルバムもきれいにすべて入っていて驚いた。シロップが入ったのと同じようなタイミングだったんだろうか。前はなかったはずだから。最近全然聞くことはなかったのもあり、ああこんな順序で出していたっけ、これはこのアルバムの曲なのか、など予習なんだか復讐なんだかわからない。財布に現金がないのでATMでおろす。先月のカード払いが妙に高くなっていたので急に財布の紐が固くなろうとしている。お金は全然ないな。しかし私はレコードプレーヤーを買おうとしている。

 

渋谷のクアトロへ。初めて見るtetoとモーサムの対バン。名古屋クアトロの30周年記念にかませたツアー企画、クアトロだけが頼りの綱というかなんというか。よかったねえと思うし、よかったなあとも思う。モーサムは解散や活動休止という形をとらず、活動はないにしてもそのような形をとらないでいることはバンドとしてやり切ってしまうとか終わってしまうための名目がないからなのではないかと思う。わかんないけど、とりあえずモーサムにはそうゆう指向性がないような気がする。意見の相違やぶつかりがあったとしても、それでもこのバンドでやり切ってしまうなんてないんじゃないかと想像している。とはいえ年をとり、年月を経ていく中でずっと同じにやり続けられるものでもない。そうゆう中でバンドの外からこうやって声をかけてくれる人たちがいるというのは、ありがたいとしか言いようがない。ライブ中に観客からありがとうありがとうといった声が漏れ出ていたけど、私としてはメンバーにというより周辺のスタッフの方々にありがとうと言いたいような気持ちだ。そしてそれに応える気になってくれたモーサムの3人には何だろうな、そんな素直にありがとうなんて言いたくないんだけどなみたいな気持ちかも。自分にとってはモーサムってそんなたやすくないというか。なんと言ったらいいか。いつまでも遠くにいてほしいといったものがあるだろう。

始まりはベースの音がモコモコしていてあれー?と思うも3曲めくらいでアンプだか何かをつなぐ線を変えるか何かしたようで、それからはそうコレ!というタケイさんの音になったのでよかった。またドラムの音もどうも小さい気がしてあれー?と思ったのだが途中から上がったようでちょうど良くなった。イサムさんのドラムの音はこうだ、というかモーサムの音のバランスはこうだ、というのが自分の中にあるんだなあ。私は主にドラムはスネアとシンバルで聞いてるので(バスドラはほとんど聞いてないんじゃないかと思う)どれくらい音の粒が広がって響いて、というところで判断しているのかなと思う。また珍しくももがギターの入りでミスったというか、おそらくチューニングを変えなきゃいけないのをそのままやってしまったんだろうなという動作があった。そういやももは変則チューニングだった、と急にそこで思い出したりして、でも昔見てた頃はそれはそれでそのことを知らないまま見ていたわけで、だけど今ではそうやって見ることが出来るという違い。私にとってモーサムはずっと無敵にかっこよくいてほしいんだろうなあ。だからそう無くなってしまう事がとてもこわいとも思ってしまう。まあでもそんな勝手な思いも裏切られ、どことも知れない山や川を平気で高速で転がり落ちてくることを楽しむようなそんなバンドなんだよなあと思う。

 

終演後、久しぶりに会うrさんたちと計5人でご飯を食べた。自分的にはrさんに個人的にこんなことがあってと話したいことなどあったけどまあライブの後だしそんなのは無理かなと思っていたらやっぱり無理だった。まあいいんだけど、話しても別にしょうもないんだけど、そうだ最初からそんなもんだ、と自分を納得させるためには結局価値を下げていくしか無くなってしまう。しかしライブ後すぐにいろんな人の感想を聞いたり、話し合うことは面白いものなんだなと思う。それはこないだのROVOの時に思ったからその延長なんだけど。今はSNSで簡単にいろんな人の感想をすくうことができるけど、でも書かれるものと喋られること、口に出されることはやはり違うのだ。自分が見てて面白いとか、おかしいとか、何かしらの違和感を感じたりしたことでも、不意に忘れていることもあるものだが、それを他の人が口にしてることでそうそうそれそれ!となるのは自分の記憶だけではまかなえないものを補給してもらえてありがたい。また自分とは全然違う場所から見ていた人には自分に見えていなかったものがある。そして自分のいた場所から見えていたものがある。そうゆうものを補い合い、提供しあうといったものはひとりではやりきれない作業だなと感じる。ふくらみが全然違ってくる。ひとりで見にいってる時は、帰り道、記憶を辿るのに焦りと不安とがどこかある。落として目印にしていったパンくずをどうにかこうにか全部拾い集めたいけど無理がある。絶対見逃している。それが結構悔しく、ひとりでできる限界を感じる。それをSNSが補完してくれるのはあるけど、でも人と話すとSNSに書かれないものが絶対的にあるんだとわかってしまう。みんながみんな何かを書いているわけではない。それはもはやその時の直接性がないと絶対に拾えないものだ。それはその時聞かないとしまわれてしまう。など思う。

しかしみんな音楽に詳しいのでそうゆうの聞いてるとほんと私なんも知らないんだなと思って、音楽のことも全然好きじゃないんだなと確認してしまう。特にフェスの話になると私はそうゆう場所にどうも全然惹かれなくなっているし、そうゆう場所に行こうとするメンタルが皆無だなと思うと、ものすごい隔絶を感じてしまうのだった。私は永遠に延々と自分のからっぽさについて刃を突き立てていなければならないのかと思うとあほらしい。私は欲張りたいのか?けれど、自分も逆の立場になっていることが時にはあるのだろう。でもそうゆう時のことはきっと無視して考えているんだろうな。自分の価値の低さについて負い目を持つことはあまり良くないのでしない方がいいと思うけれど、何に対しても結局同じように考えている自分に気がついてしまい、そうしてそのことに悲しくなって、世の中のまっとうな幸せを見てはその純粋さが自分には全くないのだと合点がいき、納得してしまう。この作業はなんなんだ。