朝から大掃除的な感じでそれなりの掃除をする。一人暮らしなので大したことはない、普段の掃除をいっぺんに全てやるくらいのこと。NHK FM栗コーダーカルテットの栗屋敷を聞いた。色々と最高だった。栗コーダーカルテットの凄みが年々あらわにされていく。個人的には大友さんがゲストで登場して栗原さん関島さんとデートコースの話になったのには喜んじゃったな。BGMがちゃんとデートコースになってたのもめちゃくちゃ笑った。

昼過ぎに出かけてイメージフォーラムアニエス・ヴァルダのダゲール街の人々を見た。75年。ダゲールの名前がついた通りがあるんだなあと思って、どうゆう眼差しで撮られたというのか、というかなりシンプルそのまんまな興味で見た。アニエスの作品にはそれくらい率直でいることが許されるような気がしたりして。しかし大晦日なので表参道から歩いていったが流石に人通りも少なくて、でもイメフォへの道を曲がるとイメフォがある、イメフォの周りだけは大晦日なんてものに影響されることもなくいつもどおりの平常運転って感じで、最高だなあと思って嬉しくなってほっとする。東京にイメフォがあることが救いの感じがしちゃう。イメフォは一人で見にきてる人が多いのもある。いっこの人だなあと思えて。場内がなんだかぼんやり暖かくて、前半はどうもうっかりぼやぼや瞬間眠りに堕ちながらみていた。前の列に二人づれの男の子が座ってて、一人が早々に豪快にスマホを落としてこれは多分後ろの席からじゃないと取れないんだろうと思ったけど本人もすでに寝てるのでそのまま放置の態度、うんうんそうゆう感じ悪くないと勝手に納得しつつ、隣の子も寝てるようだし後ろからも軽くいびきが聞こえ、こうゆう雰囲気が嫌いじゃないんだよなーと自分も眠気に襲われるどうしようもなさ。でも急にシャキーンと目が冴えて取り戻すかのようにガン見する。なんか面白い。謎なのがいくつかの商店とそのお店で働く人々を捉えた映像とその働く人々があつまってるらしき場でマジックが披露されてる映像の2種があるが、マジックの場はあれはなんなんだろう、前半で説明があったのかな、そうゆう商店の集まりの場ってことなのか、しかしその2種の映像を動作による類似として編集していたのは手つきが見えるようでニヤニヤするような良さ。そっけないようでいて自然体ということなのか?、まるで撮影者は誰もいないかのようにして撮られているような感じがした。どのようにしてその場にいられたんだろうかと思う。小さな世界に豊かに人々の表情があり、仕事があり、すぐ隣のことのようでもあるほのかさ。なんだか良いものを見たと思う。イメフォで予告でドキュメンタリーものを見てはドキュメンタリーをもっとよく見たいなと思う。

外に出たらものすごく風が強くなっていた。寒くなるとは聞いていたが、風が吹くなんてどこの天気予報が言っていたのか?映画館にほんの少しいただけで変わってしまったことに色々ついていけない。副都心線に乗って新宿三丁目で降りる。テアトルでIさんと待ち合わせてこの世界の(さらにいくつもの)片隅にを見た。よかった。こんなに当たり前にすんなり良いと受け入れられてしまうのはこの世界の片隅にを一度見ているからなのか。この映画には女性たちが様々出てくる。その立場や状況はそれぞれに想いを馳せることが出来る。その状況を受け入れ、受け止め、ステレオタイプだったり一つの性格や役割らしい言動の枠に納められることなくそれぞれの人生の背景があってその上で喜怒哀楽があるんだということが伝わってくるからこの作品は良いのではないか。親兄妹や親戚、嫁ぎ先での家族やご近所さん、知り合った女性たちや小学校の同級生、みんな一貫した強い思想があるとかそういうことでもなくただこの時代に生まれて生きているからにはやるべきことがあった。そうゆう時代があって、その時代を生きた人たちがいて、そして現在があるのだということをこの映画を見るとよく思い知らされる気がする。玉音放送を聞くとはいったいどういうことなのか、私はすずさんのあの気持ちが、言動が、すごくよくわかる気がしてしまうのだ。それは原作を読んだ時からそうで、アニメーションになって動いているのを見たらさらに力強くそう思わされる。もし自分がその時代に生きていたらと考えた時、きっと怒るんじゃないか怒るべきことなんじゃないかって想像していたから。あのシーンが、すごいと思う。高畑勲かぐや姫と、似ているのかもしれないと今書いていたら思った。

見終えてから新大久保のネパール料理屋さんへ。風が相変わらずすごくって、こんな強風は今年はあっただろうか。前を向いて歩いている気がしない。前を向いて歩けないというのはしんどいのだなあと思う。どうにか体を押し進めてる感じで。着いたところは異国感満載で、お客さんも日本人は明らかに少ないようだった。タカリセットというのを頼む。全てがスパイスの味が濃い気がする。このしょっぱさというか味の濃さはなんなのか?ほとんどが謎に満ちている。ご飯の量多いなーと思っているんだけど日本のお米と違って水分がないせいかさらさらしていて全て食べれてしまう。良いなと思うのは時間が経って冷めていってもスパイスの濃さのせいなのかそのまま美味しく食べれるところ。体の中でスパイスが炒られていくような混ざりみを感じる。日本とはどう違うのだろうかという国のことを思う。全然知らない。始まりから終わりにかけてスパイスに慣れていく。見た映画のことについて話す、というのは話してみると色々出てくるものだなと思う。見る、という行為の後にそれをどう取り扱うことが出来るのか?というのはよく考えないといけない気がした、おろそかにしてはいけないなあと。気づいたら23時になっていた。駅で別れ、コンビニに寄って牛乳と水を買い家に帰ってテレビをつけたら24時の2分前くらいの様相だった。

 

あさいさんからこないだ聞いた話。同業の男性30代後半妻子のある人、もちろん私も知っている人なのだが、その人が女性の体に触ることができるキャバクラに行く話を聞かされたといあ。その人は席に着き、女性が来たら、会話をすることもなくまず女性の体を触るのだという。向こうは何か話しかけようとしてきているのにも関わらずそれは無視するのだという。あさいさんはキャバクラ自体がまず苦手なので(そんな話も出会った当初は信じがたかったのだが次第にそれは本当のことを言っているのだとわかるようになった、という経緯が存在する)話を無視して相手の体を触る、ということにも全く理解が示せなかったという。そしてそれをおかしいでしょと言うと、また優等生ぶっちゃってーと言われたという。そういった話はこれまでさんざん何度も聞いてきているので、男性のなかでそういった話にのれない、賛同しない者はそのようにたやすく軽くはじかれてしまうのだなあというのは改めて気味が悪く、もはや嫌悪をすら通り越して見通せない奥深くにまで貫通し喰いつくされた常識、固定概念があるのだろうことに自分が生きてる世界のありようを感じる。こんな話ひとつとったって、立場が違えばあらゆる意見の相違につながるだろう。でも、そういったことを話すことがやはり必要なんだろうと思う。それはダムタイプのS/Nとか見たらそう思う。決してそれは個人の体験を根掘り葉掘り聞いてエロコンテンツとして消費するようなあり方でなくて、自分がこうされるのは嫌だとかおかしいと思うとか、それであなたはどう?と聞くことができるということ。個人の感覚だけに根ざすものではなくて、自分以外の人たちの違和感や違いそのものを知ること、聞くこと、話すことが必要なんだと思う。誰かにとっての嫌悪になることに無関心でいるなんてこと、本当にそれで平気でいられるんだろうか。まあでも実際、平気で無視してそれで許されて安らかに眠りにつけている人たちはいるのだよなあ。それはそんなにこじれていることなのか?と気軽に思ってしまう自分もいれば、どんなに言ったってまるでなにも伝わりゃしない完璧な断絶でもある、という両方の思いを抱いているような。自らわざわざ考えたりもしないような人たちには最終的に世間の空気としてじわじわと伝染していく、雰囲気で察していけるほどのものにならないと伝わらないだろうと思うし、そんな状況にまでなるのにどれくらいの時間がかかるのか?とも思うけど、それでも自分自身が考えるようになっていってるのが証明であるように、伝えられ、伝わっていく空気というのが存在はするのだと思う。

 

最近はあまり何かを見に言ったりすることに気が乗らずいた。千葉の目の展示も、行こうかなと思っていたはずがやっぱり今はそうゆう展示見る気にならないかもとおもったりして行かずに終わった。何かを見に行くことは同時にすこしこわいような気もするのかもしれない。映画とか特にそうかも。新しいものを見るより古いものを見たいかもしれないし、ものすごい大きなファンタジーの物語かとても小さな自分に確かによりそってくれる物語を見たいのかもしれない。そのあいだに無数にあるものに興味を持たないような、感じ?

あとは、見たひとつひとつを簡単に忘れてしまうような気分がこわくて。良かったものが、上書きされて消えて、隠れていってしまうようで。実際にはそんなことないかなと思うけど、良かったと思った自分そのものを裏切る行為かのように思えてもしまう。よかったという感覚の思い出をまるでずっと抱きしめていたいのだというかのような。良かったものをもうすでにあなたは抱えてるのにほかにもまだ良いものを見つけようとしているの?というような、まるで、監視者がいるかのような、、。まあただ単にあちこちに興味を持つのができなくなってきているだけなのか。好きなものを愛していたいと思うとたくさんの欲望を持つことがまるでよこしまな気がしてしまって、ひとつひとつ順番に丁寧に平等に愛さなければいけないかのような、そんなものもないもは言えない気がする。よくわからない話だ。やはり、そんなの、こんなのはただの気分の話にすぎないかもしれない。自分はなにもまともに愛せないというようなことにおびえているのかもしれず、それを誰かに責められるんじゃないかと妄想しているのかもしれない。

今年の年末は某マーケットの仕事がなかったのでまるで暇だった。なので会社の片付けとかして、年明けの仕事をすでに製作しはじめたりして。年明け早々には普通に働き始めなきゃならんのかと思うとすでに憂うつになった。ああもっと楽に儲かる仕事がしたい。ふつうに働きふつうにまっとうな金額を得る。でも決してテンポよく常にやってくるわけではない仕事、いつも常に振り回され、仕事がどっさり来ればくたびれて、ぷっつり来なければ不安が覆う。まあそんなのは私よりあさいさんの方が気苦労絶えないんだろうと思うが。まあなんとか冬のボーナスはいつも通りでもらえたから良かった。ものの、来年はまたどうだろうなあと私は心配の方を強くしてしまう。こんなんでずっと働き続けられるのだろうか。不安は常に尽きなくて、それをなるべく忘れようと努力する。

休みになってほぼ特にこれといってすることもなくしなくちゃいけないこともない、無為に過ごしているという充実感にひたれてしまう。でも丸二日家にこもってから外に出たら、ああ外の世界はこんなにいろんな音がするんだなあと新鮮に感じられた。姉が出産をしたというので、病院へ行った。出血量が多かったのでしばらく入院が延びているらしい。母からメールが来ていたが、わざわざ会いにいくほどのことなのか、めんどうのような、という気がして2.3日連絡を無視していたが、行かないという選択をすることが一種の態度表明になってしまうので、それもそれで違うわけで、まあどうでもいいかと思って行くことにした。伯母のみっちゃんも一緒だというし。両親とまともに顔を合わせ空気を共にすることが辛いのだ。だからそれが避けられるなら気は楽だ。実際、両親とはほとんどまともに視線を交わさなかったように思う。今はまだ関わり合おうとする気になれない。振り回されたくない。自分もまた、振り回したくない。姉とはもともと仲が良いわけでもないのでやはりたいして親密なやりとりがあるわけでもなく、限りなくドライだとは思うがそれがこの姉妹間の間柄と言うものなのだから、と思う。にしても姉が母という存在になると言うのは流石に奇妙だった。気持ち悪く、受け入れがたいものがある気がした。姉はさらっとさっさと母という人になれているようだった。生後3日の赤ん坊はやはり異様なもの、存在であり、おそろしかった。だけれど指や足、爪はしっかりとヒトらしくすでに出来上がっていて、それはそれでまたおそろしさがあった。生まれてきてしまって、罪だなあと思う。生まれてきてしまうこの世界が、罪だなあと思う。それでも生命は誕生し、誕生してしまった以上、生きることが求められ、またそれに応えているようだ。生まれた時より体重は減っているのだという。それは生まれたては羊水を含んでいたからという話を聞き、ちょうど昨日ブレードランナー2049を見返して羊水的などろっとしたものをまとってうまれでる存在を見ては牛の出産みたいだな、としか連想することのできなかった自分は知見がないんだなということを思い知った。人間はやはりあのように羊水というものに包まれてこの世に放りされてくるんだろうか、それが、本当なのか。

いつ実家に帰ってくるのかという話も適当に適当に上の空で返事をしたようでしていない。あまり帰らないという返答をすることや態度に出すことに固執するのも違うし、関心のなさ、無意味さで対応したい。意味なんてない。行動の選択のどちらか、ということだけ。感情は起伏しない。させない。

駅について、特別ほしいものがあるわけでもないが本屋へ行ってぶらつくも引かれるべきものが何なのかもよくわからない。読み終えてない本のことばかり気になってしまう。本屋に本は沢山あるのか、もしくは全然ないのか。無印に行っても、特別ほしいものがあるわけじゃない。そのまま帰るのも寂しくて、スーパーに寄った。学生の頃は休日のスーパーが辛かった。家族連れの人々の光景が自分の寂しさを増幅させた。今はそうゆうのもなくなって、むしろ駅からの帰り道にあるスーパーには一人で買い物をする人々の姿があり、自分もそこに紛れ込むことによって安心する。働く人々、買い物をする人々、売られるものがあり自分は買うことができる。それだけで安心をする。しかしずっと歩き続けてて買い物し終えるという頃にはぐったり疲れている。こうゆうことがあるたび、馬鹿みたいと思う。帰宅してご飯を炊いてカレーを作って食べた。アマプラで途中だった映画ファイトクラブを見てエンドロールで流れるピクシーズに感動する。映画自体は暴力シーンが多いので好きにはなれない。ブラピも若い頃はやっぱりあまり好きじゃない気がする。男たちが傲慢で、男だけの世界に酔っているようだった。

 

 

 

 

私は結局自分に対してもかっこつけてたりするんだろと思う。日記、文字にするという時点でそれは発生しうる。でなんかその無駄なハードル上げをやめたい気がする。できるのかどうかはよくわからない。それが悪いとか良いとかいうことも測れない。けれどやめたい気がする。

 

そういえばこないだのROVOのライブおわりにkさんと恵比寿駅まで歩いてJRと地下鉄のわかれめのとこでいつもそんな感じだが結局立ち止まって喋ってて、でも最後そろそろってなったとき、もうこれで良いお年をかなー?ってなって、ああそうですねーってなって別れたが、私にとって良いお年をーなんて言うのはきっとrさんやkさんが最初だったんだよなあという気がして、それは自分にとってそれまでとちょっと違う、知らなかった世界をのぞき見たような、そして踏み入れた出来事だったんだなあと今頃になって思う。ああ、こうやって、そうやって、良いお年をーと言いあうんだ、言えば良いのか。それは少し背伸びをするような、でも言うのはたやすく言ってしまえばそれでそれだけで気軽に仲間入りができて。そんな10代の頃の自分を少し遠くから見つめる感じ。まあkさんと相変わらずそんなようにして12月の夜に別れを告げている、ということになんだか笑える気がした。へんなの、と思いながら納得をする。帰り道、さんざんROVOが好きだなって話をした。10年くらい会ってなかった時間があるのに、それでもそのままそれ以上にROVOを好きでいられる気持ちが自分にもkさんにもあって良かったなあと思う。ROVOの長年のファンの人たちはみんな愛情深いなあとなんとなく思う。主たるファン層は私やkさんより上だと思うけど愛情を惜しみなく示す態度においてはみなさん子供のように純真な目をしているように、どうも見える。

 

午前中、ラジオのすっぴん!で発達障害自閉症、知的障害のある子供についての相談のコーナーを聞いていたら、自分が子供の頃だって同じような感じだったよなあと思う、ということがよくある。落ち着きがなくて、じっとしていられなくて、掛け算が全然できないと家庭訪問で先生に詰め寄られ、よく学校に行きたくないと暴れ、柱にしがみつき、ヒステリックで感情の起伏が激しくて。それはもう何年も前から、発達障害といった言葉をよく聞くようになってからそれは自分もそうだったのではないか?と思わずにいられない私自身の描写だ。でも私はもう随分と体の大きな人になってしまった。子供の頃のそれらと中身は今もほとんど変わってないと思うけど、見た目からすれば五体満足に機能していそうな身体や当然のように備わってるであろう熟した精神を持っているのだろうと見られるだけの身体が私を構成している。けれど実際はそんなことなくて、ただ身体が大きくなっただけにすぎない。私の内面はずっと幼く、幼いまま成長することができなかった。ちぐはぐな異物感、それは今になっても時々感じる。

でも時々で済むくらいには私は身体の大きさにどうにか合わせた自分をやっていられている。随分遠目で見れば、なんとかそれらしい体をなしているくらいには。だけれど、自分の欠損を感じずにはいられない、それを意識せずにはいられない。大学を卒業した後の数年間は欠損のことばかり考えていた。今はいくらかネジが足りなくてもまあそんな人も沢山いるから自分もそこに紛れていればなんとかやっていけるんだなくらいに考えている。それは日々を転がしていくには必要な視点だけど、自分にとってのその足りなさ、欠落しているそのものを見つめることはまた違う。普通だとか、正常だとか、自分はそういったものからいつも外れている、自分にはできないことばかりが目の前に並んでいて、だからダメな存在なのだと受け止めてきた。

無職で病院に通っていた頃、ハートネットTVで見る大人になって発達障害だと分かった人や、いじめにあって学校に行けなくなった中高生たち、LGBTの人たち、そういったマジョリティではない人たちを見ては泣いていた。決して自分が同じ状況だから、立場だから、と言うわけではないのに、感情移入せずにいられなかった。それはその状況における生きづらさが、全然違う人なのに、自分と同じだと感じていたからだ。そういえば、だから、それからハートネットTVはどんな話題であろうと見なくちゃいけないと思うようになったんだなあ。薬物やアルコール、ギャンブル依存症の人たちだってそう。決して自分と同じであると言う問題が扱われていなくても、それでも救われる気がしていた。苦しみは自分だけのものじゃないということ、そういったことに。話が随分それた。

子供の頃の私は聞き分けが悪く(今も悪い)よく暴れていたのでよく叩かれていたし、よく家の外に放り出され、雨の中靴も履かずに歩いてても放置されていた。まあとにかくヒステリーがひどかった。自分の記憶にも確かにそうあるし、お前はヒステリックだということを何度も言われていた。だからそうゆう存在なんだろうと自覚したし、意地になってそれを徹底的にやってやるんだと思っていた。でも今になって思うとこれは歪んでいたなあと思う。よくない子育てだろうと思う。まあ母もそうするしかなかったんだろうと思う。でも、だから、きつく叱りつけられたりして、まるで皮肉を言われ意地悪されてるみたいな子供と母親という図を見ると、泣いている子供を見ると、すごく辛くなる。自分がその子供になってしまう。そこで叱られている子供は私だ。お願いだからそんなことやめてほしいと思ってしまう。そんな顔をしないで、そんなこと言わないで。それは子供の私が願っていたことだ。母親は子供が屈するのを待っているのではないか?自分の手中にあるもの、子供を思い通りに操れる手綱を持っているのだから。でも、そんなことしてはいけないと思う。

午前中はあくびばかりして過ごす。それで疲れてお昼を食べたら頭痛がしてきた。仕事はあまりつまってないこともあり、午後はあさいさんと伊藤詩織さんの話から広がっていろいろと話をする。ツイッターで見かける伊藤さんの裁判の判決に関連して出てくる女性に対する侮辱、それらはあまりにひどくて自分で積極的に見る気にはならないし、目に入っても元ツイートをたどることさえ恐ろしく気味が悪くてする気にはなれない。でも目を背けていいことでもない、むしろそのようなとんでもない自分たちに都合の良い解釈しかできない人たちがさまざな濃度をもってこの社会にはたしかにいることを目の当たりにしなきゃ、それはおかしいのだと主張しなければいけないことにすら意識的になれない。何かがおかしいこと、何がおかしいのかについて、自分の身をもってよく想像し、考えなきゃいけないと思う。19時から千葉の現場。終わってからブロンコビリーでご飯。店舗としては微妙。チェーン店も結局は店ごと、もしくは個人の力量によって決して同じではないなあとつくづく思う。帰宅して生きてることの寂しさにどうしようもなく行きづまるような気分で寝る。寂しさというのか、与え与えられるもののなさ、というような具体的なものなのだろうか。からっぽだ。母から明日はイヴだからご飯食べに来ればとメールがくるが夜は仕事あるからと適当な嘘をついた。

 

昨晩は帰宅して即ご飯を、鍋を作って食べて日記を読む会に行ったことを日記に書いて…とやってたらなんだかすごく体がだるいことに気づきとてもお風呂に入る気力はないと思われとりあえず寝た。23時過ぎに起きるも気が変わらないので寝た。一度夜にお風呂はいるのがめんどうになると癖付いてしまう。なぜそんなに疲れたのだろう。ふだんあまり人と喋らないのに喋ったせいだろうか。人がいっぱい、といっても10人もいないのに、そうゆう場に意識を向けるのがふだんなさすぎて、さすがふたりだけの会社で働いてるとこんな感覚になるものなのか、と思えたりする。もともとキャパが広くないとはいえ、そうゆうものかと思うとなぜか少しがっかりしてしょげる気持ち。そういえばあいトリで見た田中功起さんの作品の映像の2が日記を読む会を彷彿させるものがあったみたいな話をしようと思ってたのにすっかり忘れていたなと思う。でもそうゆうのって、思ったその時の鮮度が大事なのである気がして、時間が経っちゃうと自分でも得たはずの確信がうすれてしまう。いろんな人の日記を知って、自分ももっといろんな風に日記を書いてみたくなる。sさんのお母さまの高校時代の日記は時代的なものかもしれないけど富士日記とか彷彿させられるなあと思って、自分もそんなように書けたらと思うけど、無理だな〜と思う。気高さがない。かなしい。