朝から不動産屋へ行って契約を完了させる。歩きながら、うんうんなんとかここでやっていけそうと思う。駅も近いしスーパーも近いしなんでもあるし。まあそのなんでもあるの大半はほとんど使うこともないんだろうけど。さいたまの風景に戻ってきちゃったなあと思う。まあいいか。どうにかやっていけるか。わからないけど希望はもちたい。

そのあと映画を見に行こうかどうか迷う。スタバの向かいにあるベンチに座る。スタバは土曜の10時半ですでにそれなりに混んでいて、こうゆうふうに時間を過ごす人たちが一定数いるんだなということに驚いてしまう。スタバでなにか買おうかなと思ってやめた。母に連絡して浦和の伊勢丹に行かないかと誘う。行くというのでとりあえず先に浦和に行き、東口のドトールでカフェモカを飲みながら持ってきてた本を読んだり日記を書いたりして待った。ここでは特に大きくは座席間隔はあけられていない。カウンター席には仕切りがついていたが。なんか、対応策とかって店とか場所によって違うし、どれが絶対的な正しさかなんて言えたものじゃないとも思う。でも、そのそれぞれの違いの中でじゃあ自分はどう振る舞えばいいのかな戸惑ってしまう。電車の席です間隔をあけずに座ることは悪いことなのか、嫌がられることなのか、でも席はもちろん埋まって立ってる人で埋め尽くされる満員電車はそしたらどうして有りになるのかという話。映画館でひと座席ぶんの間隔があけられるのは、正しいことなのかどうか、あれはやっぱりちょっと窮屈な感じが最近してきてて。ネットから買うとき、買える席が絞られてるのってなんか、なんかな、すごい制約を感じる。なんてことないことかのように最初は思ってたけど、やっぱりそれだけでもすごく大きなことなんだとわかる。ライブハウスはじゃあどうなるの?ピットインは定員50名にしぼるというが、座席はどうしてるんだろう。とりあえず、帰宅したらの手洗いとすぐ風呂が有効なのかなとは思うが。伊勢丹うどん屋の列で椅子に座ってたらひとつあけて座るように貼り紙してあるのを無視したおばさんがその紙のうえに平然と座っていたが。なにを守ったらいいのかなんて、曖昧で、個人的すぎる。

そのあとグランマママドーターで2月くらいからこれは良いのではとずっと意中にあったワンピースをセールで購入した。色みとかどうかなーと思っていたが、着たらやっぱり形とかかわいいし。あとフォックスファイヤで現場行くとき用のTシャツも買う。マイナス3度になるらしい。デザインがメンズの方がかわいくて、首元つまってるのが気になるけどそっちを買う。アフタヌーンティーで飲んだフルーツティーが甘くて良い。なんか適切に買い物したーという気分。主に商品券を使った。これなかったら買ってないかもな。長く着れる服を買いたい。

 


愛の不時着を見て思うのは、このドラマにおいては男と女でそれぞれが異性愛者だったというに過ぎないということだ。ここでは男と女のいわゆる恋愛ということになっているようだが、なんか、決してそれだけしかないということではないものを感じられて、それが心地よかったようにも思う。でも、はっきりそうとだけ言えるのかどうかはわからない気もする。男女がどんだけひとつ屋根の下にいてもキスまでしかしないというのははたしていったい自然なことなのか、不自然なことなのか、どうなんだろうな?と思う。セックスしないのはおかしいとも思うような思うわないよな、セックスしなくてもおかしくはないとも思うような思わないような?でもとりあえずこのドラマにおいてはそこを突っ込まなくてもあまり気にならないかなっていう設定や環境やキャラクターなどはある。日本のドラマもあまり見ないから日本と韓国の比較とか類似とかもいまいちできないけど、2.3年前にやってた新垣結衣と松田翔平のドラマ、獣になれないわたしたちはもしかして少し似た雰囲気があったかなあと思う。距離の詰め方みたいなとことか。まあ物語は全然違うんだけど。男と女の恋愛模様を描くというよりは、人と人の話である、ということのほうを率直に感じるのだよなあ。はまりすぎてYouTubeであがってる映像とかもいろいろ見ちゃう。やばい。ていうか韓国の俳優さんたちみんな若々しすぎるのどうなってるの。なのにナチュラルでいやみがなく、年相応のおちつき、ふるまいがある。2巡目を見始めている。

朝から現場のため上野で待ち合わせ。久々だなーと思う。現場に行くときは引っ越すことでまた面倒になるが、いたしかたない、でもやっぱり朝の通勤ラッシュ時間帯の電車に乗らなきゃいけないのがめんどくさい。現場は新橋で、ガラス面の貼る作業が多いからyさんも呼んでいた。yさんと一緒に現場やるのとかいつぶりかわからないが。居抜き物件でまだ壁も天井も床もできてない、つまりそれらの業者さんも入ってる状態でつまり粉まみれになるのはわかっていたがやっぱりいやだ。もちろん空調もないし風の通り道は出入り口だけだが、ガラス面で作業をするから暑い。しかもマスク。最初からみんな汗だらだら。マスク、ほんとしんどい。マスクにも汗がしみわたる。ぼたぼた垂れる。こうゆうときは自分が女だなんてことは忘却するに限る。女だ、とも認識されたくないのは自分がつくづく女なのをわかっているからだが。女だと知られるとなにか不利が起こるんじゃないかって気がしているんだろうと思う。実際そうだとしか思えないから警戒する。いちいちこうゆう発動があるのがめんどくさい。誰かと一緒に作業をするというのは相手と自分のやり方をあわせにいかないといけないが、3人だとあさいさんとふたりでやるときとはまた全然違うからいつもより、どうしようかな、と悩んでしまうことが何度かあって、それが自分の動きとして無駄があった。無駄というか、どうしようか?と立ち悩む時間がもどかしい。でしゃばりたくもないが、できないやつ気が利かないゆつとも思われたくはない。なにも思われないくらいがいい。14時半過ぎくらいには終わるも、駐車場で料金はらったのにストッパーがさがらず待たされる。私は荷物番してたから、植木のとこに腰かけてゲームして待つ。労働者だなあって感じがする。ずいぶん脚立を上り下りしたからこれはさすがに筋肉痛になりそうと思う。お風呂あがりに鼻かんだら鼻水が灰色の粉にまみれてた。夜に寺尾紗穂さんの配信ライブを見た。ほんとうは高円寺でワンマンだった。先行でとってたチケットは最前だったが端のほうでこれはどうなんだろうと思っていた。途中から伊賀さんとあだちさんが参加して、そのあとさらにユザーンも参加。ユザーンのタブラの単音はまるで電子音のようだった。伊賀さんはひげがもじゃもじゃになってて、あだちさんは相変わらず。寺尾さんのピアノを弾く指元がよく見えるのは配信のよいところだ。ふつうじゃありえない。ふつうの、これまでの、生で見るライブでは。なんだかでも、ああもしこれを生で見ることができていたらなあ、そしたら、何か違っただろうと思ってしまう。配信を見ている人の数が表示されている。それだけの人が見ているのだと思う。でも、それでもそれは誰が見ているのかわからない。知らない人たちがひとつの場所に集まって一緒に見る、いる、ということとはたしかに違うことだ。知らない人たち、その知らない誰かとでもしかし共有していること、できることに、私はすくわれていたと思うよ。なんか、やけに、そのことを痛感した。配信を見ていることに、なんだかむなしさを感じ始めていると思う。つらいのだ。私は音の振動を直接に感じたいのに、そうではない、それではない、きっとそこから得られるものがあったはずなのに、ない、ということを感じてしまう。ROVOのライブはチケット取るのに迷ってたら売り切れてしまった。配信で見ると思うけど。会場にお客さんがいる状況だとまたなにか違うだろうか。

気づいたらずっと書いていなかった。いや気づいていたけど。最近は毎日毎日頭痛がする。ぼんやりとする。痛くないのに痛いような気がするということになっているのか、ほんとうに頭痛がしているのかの見分けがつかない。頭痛がしているような気がしているということにただ悩まされているのかとしれない。毎日頭痛薬を飲むので消費が早い。こんなに頭痛薬を消費することになるとは思ってもいなかった。先週は短期のバイトの面接を受けに行った。職業訓練校に行く前のころにやっていたのとほぼ同じ仕事、むしろそのころのより簡単そうでそれでいてでも時給は少し上がっていた。しかし落ちた。週3しか入れないし本業があるというのも応募人数が多い中では不利だっただろうか。どこかでほっとしてる自分もいた。やっぱりめんどくさい気もしていた。また他に探そうかどうしようか、いやなかなか仕事もないもんだと思っていたら本業のほうが少し仕事も増えてきて現場仕事が多いけど夜の現場もつづくことを考えると副業はやっぱりまあいいか、なんてまた簡単に開き直ったりする。ばかみたい。それでようやく先月から予約しといた物件の内見に行き、そこで部屋を決める。今の部屋の解約を出して、引越し屋を探し、訪問見積もりに来てもらって日時も決めて、それから美容院に行ってカットとパーマをやってもらってなんてすっきりとした髪の毛になる。最初からこうだったかのように錯覚しちゃうな。そうじゃないのに。ネットフリックスで韓国ドラマの愛の不時着を全部見たあとだったから?なのか?関係あるのか?なんか男性の美容師さんふたりにパーマ剤ぬってもらったりするのが奇妙にぜいたくのように思えた。愛の不時着はすごくおもしろくて、そのおもしろ要素は色々あるが、役者さんたちの眼で演技する上手さだったりカメラワークや編集の上手さ、おもしろさが冴え渡っていてドラマという虚構の物語にするする引き込まれていくという体験がとても新鮮で強く印象的だった。欧米の映画やドラマとはまた全然違う親近感と全然違う文化、社会でもあるということをこんなにも鮮やかに見せてくれるなんて、韓国ドラマってはじめて見たけどとても驚いた。ドラマだと登場人物が多いから、それがすっごくおもしろくてよく練られて作られている。主演のふたりの俳優さんもとても素敵でかわいらしくて惜しみなく役を演じているように感じた。おもしろいな。美容院のあと、有楽町のヒューマントラストシネマでダルデンヌ兄弟の「その手に触れるまで」を見た。さすがのダルデンヌ兄弟、という感じだ。そんな風に言ってしまうのは簡単で乱雑だとは思うけど。終始冷たいようなカメラの視線は主人公の少年の心のなかのありようそのもののようだと思える。こないだBS1で見たやはりベルギーに住むイスラム教徒の家族の6歳の少年たちをとらえたフィンランド製作のドキュメンタリーを思い出しながら見た。信仰にいつどこでどのように出会うのか、それは幼いひとたちにとっては選びようがないともいえるし、適切というものがあるのかどうかもわからない気もする。すごくいい映画だと思う。でも、あいかわらずなんてなんて淡々としていて味気ない映画なんだろう。でもそれが映画というなかでヒヤリと感じさせられるリアルでもある。これがまた映画なのだと思う。冷たくて重い。宗教のことについては日本にいるとやはりあまり肌感覚にもうすいものになってしまう気がするが、もっと。宗教に限らずとも民族という視点からでも知るべきなのかもしれないとも思う。

5時半起きで久々に現場仕事。現場出るのは2ヶ月半ぶりくらいかも?渋谷で乗り換えて表参道行くのがスムーズすぎて異次元だ。もはや渋谷駅じゃない。と言いたくなる。あさいさんとはビルの駐車場で待ち合わすが道が混んでいたらしくゲームして待つ。最近パズルゲームのやりすぎであきらかに眼球が疲労している、わかっている。大した仕事内容じゃないわけだが、でも現場ってこうゆう段取り、感じだよなーってのを久々にあじわった。終わって車に戻る道すがら、どっかの前面ガラス張りのブランド店が何人もの人を入れて清掃をしていた。なんか異様な、ああでも少しずつ街が人が動き出しているのだなあという実感が自分の仕事含めて感じられた。平日の午前中だからそもそも人通りも多くはないだろうと思うけど、それでもこんなふうに人が歩き、行き交っているということが妙になまなましく感じられた。スーツなどを着た人の姿より、自由な格好の人が多いせいだろうか、駅などで見る人混みの光景とはまた違うように感じられたのかもしれない。車に乗って動き始めたら生理の痛みが動き出した。うーん、と、声も出なくなる仕組みだ。会社に戻る前に私のひとり暮らし部屋によってもらい、隣との壁に貼っておいた板ものを運び出す。先週の金曜に準備はしておいたのだった。あとガスストーブも。それから会社の方に戻って五右衛門でお昼を食べた。薬は早々にのんだが、なんだか最後の方は気持ち悪くなった。だがむりやら食べた。今回の生理はなかなかしんどい。いつもしんどいけど。こんなもんが来ながら働いてる女性っていったいぜんたいどうなってるんだと思う。生理死ねって感じだよな。それしかない。わるいけど。生理という魔にすべてが支配され乗っ取られ、そして煙をあげるようにして消えていき解放されるわけだ。帰宅してツイッター見てたらアップリンク浅井隆さんが元従業員の方々からパワハラで訴えられるということを知る。私はすんなり納得できてしまった。

 

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三層に貼ってた壁。CP、アルポリ、CPで計17mmあったわけか。1枚目のCPだけ虫ピンでとめてあとは両面テープ、机とテレビ台を壁につけて置いていたからそれで十分だったが防音こうかがどこまであったのかはよくわからない。でも何もしないよりは確実にマシではあったような。なつかしい、たいへんだったな。

 

ごはんを食べながら涙が出そうになる。シャワーをあびながら口からはやく死にたいなーと声が出ている。おもしろがって繰り返す。老人になっても同じようにまた明日を過ごすのか。その無味さがこわい。はやく殺したい、死んでほしい。こうゆうことをわざわざ言葉にさせて思うのは特別な時期だろうか?でもそれが本来の自分なのだと感じる。うまれたら生きなきゃいけないなんて。どうして譲渡できないんだろう。