みんなが好きだっていうものを自分も同じように好きだなんて言えやしない、私はもうそこに同じではいられない、私はそこから弾き出されてしまったのだから、だからそういったものを敵視する立ち位置を確保すること、混ざらないこと、それが自分を守る線引きだったように思うしそんな理由などなくたって自分が好きになったものが最初から私が好きになるものだったとも言えるだろうからこんなこじつけられたような背景は必要ないのかもしれない。いやでも両者はその釣り合いが確かにあっただろう。私が何かを選んだのは偶然だけど必然でそれを選び取れたという背景は消せないのだろうし。みんなと同じではいられない。これはまだ書き途中の話というかうまく書けない話のことだ。

mちゃんに誘われて、mちゃんがチケット取ってくれて、ディズニーランドに行った。18年ぶりくらいだと思う。いく前から薄々気づき始めていたけど、私ってばデイズニーランドにそれなりに行ったことがあり、それなりに思い出や思い入れがあって、話始めると結構いろいろ事欠かない。でもそれは最後に行ったのが17の時で、それ以来の断絶があったことと私のものの考えかたや捉え方と密接に関係していることだよなあと思う。子供の頃の記憶の存在がデカすぎる、その存在にも驚かされる。どうしても俯瞰したような視線や気持ちで考えてしまうところも多い自分にモゾモゾとしたものを感じつつ、mちゃんが誕生日に合わせてどうしても行きたいんだと言っていた、それに付き合えて良かったと思う。

9時に選挙投票行って10時からBTSのPTDライブもっかい見て13時過ぎに「DUNE/デューン 砂の惑星」見に行ってさらに「最後の決闘裁判」を見た。デューンハビエル・バルデムがベタな感じだけどやはり好きで最後の決闘裁判はつらくて痛くて仕方なく、最後の決闘はただただ愚かで見てられないとさえ思った。

「最後の決闘裁判」、映画としてよくできてるとは思うんだけどこれをとてもよかった作品としてあげることはできないかなって思う。なんかうーんだってなあ、見るのキツいってところも沢山あった。これ見れないって人も沢山いるでしょと思った。その作品を褒め称えることはできないよなあと思う。

でもまあ見れる人は見て良いんだろうと思うわけでもあり。この映画が時間の経過とともにレンズを絞っていくようにしてくっきりはっきり物事のおかしさの点の数々を明らかに示していくのも、見てもわからん人にはわからんのだろうなとは思った。それくらいには歪んだ世界が広がっている。

デューンの硬質で静謐な空間はブレードランナー2049と通じていて私はあの冷たそうな感じ、そしてそこに強く差す光、という描写がとても好きだし心地よさを感じていると思う。熱と冷え。メッセージもまあそうか。

大声で好きとは言わないけどひっそり好きだとは抱えていたい。作品自体は大きな世界だけれど、なんかまあほんとそうゆう大きさで抑え込もうとはしてこないところが良いんだろうな。

帰宅してちょうど20時、TBSラジオの選挙特番をいくらか聞いた。維新が議席増やしてるのに驚き、しかし大阪で人気となるのも、それはそれでわからないとは言えないのかなとも思う。私は嫌だけど。不安にはなる。でも共産と立憲でそこまで議席が取れるわけでもないのかなとは思っていたし、Twitterで見てる世界はすごく狭い限られた世界なのも理解はしているし、それよりもっと大きな多様な偏りある安定した世界があるわけで、自民党議席が沢山あることには驚かない、驚かないつもりだったけど、でもやっぱり全国地図でそれを目の当たりにすると、なんでこんなことになるんだろうと口に出してしまいもする。それは自分が知らないからだとも思う。日本という国でさえわからないでいる。

mちゃんと昼前に六本木で待ち合わせてサイゼリヤへ。その前にタカイシイフォトギャラリーで展示見ようと行ったら12時オープンだった。ギャラリーにはせめて11時にはオープンしてほしい。なんでそんな遅いんだ。サイゼでmちゃんの新しい職場、仕事の話など聞く。LINEで書いてこないのはきっと良い環境、状態だからなんだろうと思っていたけどまさしくその通りのようで良かったと安心した。あまりにテンションが高くて、人はこんなに変わるものかと思うくらい。ああでも本来mちゃんってこうゆう人だったよなと思う。いつの間にか私たちは変わっている。ディズニーの話もそこそこで新美の庵野秀明展を見にいく。3時間ほどで見終えて、スタバの紅茶専門店でまたなんか私はBTSの話を例に出して喋ったような。mちゃんにはこうゆう話がしやすくて助かると思う。ただこうゆう時あまりにすんなり受け入れているような、それはそれで危ういところなのかもしれないという気もしてくる。いや、いいこと、ところなんだけど、もっと疑問に思ったり異論を唱えてくれても全然いいわけで。私が私の話をさもこれみよがしにしすぎているんじゃないかと少し不安にも思う。いやこれも私の疑りすぎなだけか。どうか。

D.A.N.の新譜は一体なにで出来てるんだろうって感じ。どこからなにを採掘してきたのって感じ。NO MOONってタイトルを出してきたからからに乾いたイメージに絞められる。自分が良いと思うものによく共通して感じることとしてつい最近初めて聞いたはずなのにまるでもっと前から知っているよね?みたいな。

記憶の遠さや深さを呼び覚まされるようなものがあるいつもそれ不思議、いや不思議なことなんかじゃないんだろう、必然だろうとも思うんだけど、不思議という現象に一旦置きたい。月って海のイメージだし海って宇宙なんだよな私の中では。これはいろんな好きなものが混じり合ってきている。

おかえりモネ、ひとりひとりの過去の傷みに時が経つことで向き合うことができる、口に言葉にすることができるようになるというのがひとつひとつ描かれていてよかった。言葉になんて簡単にできやしないしましてや誰かに言うことなんてたやすくない。自分自身との対時のそばに、他の誰かがいる。

過去の自分との対比で今を生きてしまうのは励みになりえるし畏れにもなりうるなと思うんだけど。