やっぱりながら自分は無力で、無力というかなににもならず、やっぱり今更感がものごとなんでも幅をきかすものなのか。自分の行いを改めるというのは、しかし、過ぎ去ってしまったことを塗り替えることはさらさらできないのだ。けっきょく。もう自分がなしてしまったことは他者の記憶や感情に刻まれているし、そこでもう風景は風は色は決定的になってしまっている。それを塗り替えるだなんれ、そうできることではないのだ。人のこころはかたくかたく、年や月日を重ねればそれだけよりかたく、固定されていくだろう。やわらかになるところもありはするだろう。でも、それが他者によるこころ、その前後と関係や連なりによる感情や風景はどうしたってそれとしてその場に壁画のように塗り固められて、あとは年月による風化にたださらされていくしかないんじゃないだろうか。その上に上書きするとか補修するとか、そんなんは効力がないし、はがれもしない。

今更、というのはむなしいものだな。もう手おくれなんだ。遅いんだ。後悔してとり戻そうったって、もう今更むりなんだよって、誰も言わないけど現実がつきつけてくる。しょせん私という人間が変わるわけでもない、生まれ変わるわけではない、私は私のままなのだった。だから変わることはできたとしても、以前の自分は以前の自分のままなんだった。その頃の自分は永遠にそこにとどまっている。定着している。自分のなかに、ということとまた、他者の中にも。他者の中に住む私を改変することはできない。素っ気なく、強気で、やさしさの薄い、我は強く、味気ない人間として。誰のことも助けない、自分のことでいっぱいだから、自分が強くありたい想像とどんどんこぼれ落ちていく実際と、誰にも自分が安らがないのと同じように誰も私に安らがなかっただろう。誰もが羨ましくて恐ろしかった。必死でこしらえる自分はどんどんどんどんより一層より一層にうすぼんやり透けて形も肉もなくすのだった。なくしてしまったのだった。

私はまたひとりぼっちになってしまうんだろうか。と思う自分がいた。また、とは、いつのことか。なってしまうとは、そうではなかったことがあったと言えるのか。人は誰ともわかりあったりしない。しないしないしないなのにそれを求めるのはいつまで続くんだろう。ひとりで生きようとするにはよほどの意思がないとむりなのか。これが人間の愚かさだとするならば笑える。そんなことで片づいてしまってははやく死んでしまいたい。

死なないためにずっと毎日なにかを欲してる。死なないための、生きるひっかかりを求めてる。生きることも他者だより。自分自身に求めることは、ものは、今の自分にはないんだなあと思う。こんな生き方していて大丈夫かいなと思うが。でも生きてる。

いつか誰かが死んでしまうことはいつも想像している。そのとき自分はなにを思うだろうかと想像する。じゃあ自分はいつどのように死ぬんだろうか。あらゆる死に方はあるだろう。死んだら、ぜんぶおわりだ。死なない想定で毎日を生きている。