液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

最近の自分がちょっとおかしいのは分かってた。おかしいっていうのは、おかしいっていうことじゃなくて、何か、枠みたいなものが、一部、なくなってしまっているような感じ。それでも自分の感情はあるがままに進むし。手がつけられなくて。そのまま放っておいた。そうしたらやっぱりきっと何かがおかしかったんだ。
初めて手首に手を出した。昔にもっとずっとある長期間深い所へ落ちてしまっていた時は、絶対に手を出さなかった。多分そうゆう方法はその時の私のやり方ではなかった。考えが違った。もうあまりにもずっと思考ばかりであったから、死ぬという実際の行動じゃなくてそれは思考だった。思考だった。だから、カウセンリングの最後の頃のある日、私の手首付近についていた猫にひっかかれた傷を先生がどうしたの?と聞いた時初めてやっと、ああそうゆうやり方もあるんだなぁって思った。もちろん先生はそんなこと気づかせるためになんて言ってないわけだが。先生は最後の時に言ったなぁ。頑張りすぎちゃ駄目だよって。私はなにも頑張ってなんかないよ。そもそも頑張るってわからないよ。私は昔より今の方がもっと全然わからない、自分が。昔はただただ自分の狭い世界だった。どこまでも蒼い世界しか見えなかった。たとえいくら自分が分からないって思っても、その狭い話だった。けど今の自分はもうきっとそんなんじゃなくなってしまってる。思っちゃいけないけど思ったんだ。昔の方が良かったって。今の自分は自分を見ていないような気がする。本当の自分なんていない。だから、きっとふらふらしているんだ。
従姉が自殺して思ったことは、自殺するのは悪くないってことだった。大人たちはバカなことをって言うけど、私は思わなかった。それまで良いとも悪いとも思っていなかったことだけど、明確に悪くないことだって思った。悪いことだって、自殺を否定してしまったら、自分を否定するのに繋がると思った。それだけじゃなくて、自殺したくてしたのだから、それで良かったんじゃないかって、思う自分がいた。もちろん従姉が死んで悲しい。凄くショックだった。でも、いいんじゃないかって思う自分がいて、これは良くない考えなのかなと思った。私の考えは浅いのかもしれない。でも本人が自殺したかったんだから、それを否定しちゃ、なにか違うんじゃないかって思った。
彼女が死んで、何で私は生きているんだろうって思った。べつに比較の理由も何でと思うところの理由もない。ただ、そう思った。そこの疑問がずっと拭えないでいた。だからもうそんな色々が混ざりすぎて。元々自分の全ては間違っているし。自分は凄く嫌な人間で、自分でそう思っているところがまた凄く嫌で、それでのうのうと生きているところが嫌で。
手首切ったところで死ねないってわかってる。でも、死っていうものに少しでも近づきたかった。もしかしたら、もっと距離が出来たのかもしれないが。それに切れのよくないカミソリだし、ただの浅い傷でしかない。リストカットの心理状況っていうのはよく知らないから自分でも分析しにくいが、自分にはそれしか出来なかった。そこが、昔と異なる点だった。何かの意識の違いがそれ。それはなんだろうなぁ。まだ自分でも明確じゃないのだ。もう昔みたいに一つの世界で長い時間思考にめぐらせていられる自分じゃない。生きている自分があるから。だから私は手首に手を出す行為をした。
それで何が変わっただろうか。自分でだめだなぁと思いつつも思うところは、繰り返してしまいそうだというところ。切ることの安心感とかいう一言で片付けるのは嫌だが、少しはそれが入ってくるかもしれない。あぁ最悪だな。そうゆうの好きじゃないなぁって思ってたくせに。生きている自分があると、こんなことになるのか。でも安心感とかいうものだけじゃない。だめだ自分じゃ全然わからない。これはなんだろう。馬鹿みたい。馬鹿だ。傷なんてつけたってただの自分用だ。こんなんだから死にたくなるんだよ。
生きることの中身は沢山あるけれど、死ぬことの中身はない。それでも天秤にかけたらそれは釣り合っている。私の中では。それは、悪いことなんだろうか。わからない。
幼稚かもしれない。だろう。でも今の自分がこうあることを自分でちゃんと意識してないと、もっとわからない道へさまよってしまいそうで。そうやって生きることを選んでいる。