いつになったって日記を書く理由を捜し求め続けてる。何かに迷ったら、絶対にそこに問い詰める。癖?それだけ、もうずっと、日記を書くという行為のところに寄りかかっているのだろうか。そこを問い詰めて何か答えが出れば、その何かの迷いに答えが出るような気がしてしまうんじゃないだろうか。自分の気持ちの迷いは常に日記と混同し同化している。気持ちと日記は繋がっている。ネット上で日記を、日記という正式なものではないにしろ、こうやって言葉を連ね始めてもうすぐ丸々4年になる。今の私にはそこからの始まりが妙に大きい。なにかきっとそこに縛られてる、良くも悪くも。年月を数えるという行為が大きく圧し掛かってくる。それは重要だ。
一体いつまでシロップなんか聴いて涙してるんだろう。あまりにスッカラカンになってしまって、あまりにぼうっとしてしまった時、自分の枠内に白い濁った風がふいに吹いた時に、それはイメージであるけれど、季節の移り変わりを示す少しひやりとした空気という象徴的なものでもある。その時にその音楽が流れてきたら涙がぼろっと出てしまう。そうゆう時、自分がすごくばかに思える。ばかみたい。私いつんなったってシロップ聴いて泣いてる。1年2年3年、春夏秋冬どれが来たって。もう繰り返しし過ぎてて昔みたいにその理由をしつこく問うこともなくて。同時に、何にも換えられない安心感が、そこにはある。自分にしか分からない、自分の中でしか生まれない広がらない感情がある。自分のスッカラカンさとはべつに、私はまだシロップで涙を流すことが出来ているという確認の行為でもあり、そしてこれはあといつまで続くのだろうかという誰へでもない問いかけ。私がシロップで泣くのは、果たして今の感情から生まれるものだろうか?自分で思うに今の感情で泣いているものではないような気がする。全てではないけれど、確実に過去のフラッシュで泣いているところが強いように思う。その過去のフラッシュと、今の何か、空気とかちょっとした感情とかがリンクすることによって、主に泣く場面設定は今でなく過去で私は泣いているだろう。それは良いことではないとして、悪いかどうかの判別は自分では出来ない。過去に浸る癖は以前からあるし、それを自分で罪の意識として持つことは出来ないし、どうしたってしてしまうことで、誰かに否定されたこともないし、そもそもそんな話誰にもしなくて、誰にもしないのは自分で多少はあほくさいことだと思っているからだ。過去にしがみついてるのはかっこ悪いと思う。でも、そんな自分を今更、消すことも否定することももう無理なのだ。わかんない。誰か教えてくれるだろうか。誰にも求めたくなくて結局自分しか信じてないから過去にしがみついたままなのだ。けれど、過去にしがみついていてはいけないのではないかと思うから、こんなループに陥っているのかな。相変わらずシロップは毎日のように聴いています。それだけが変わらないこと。


シロップの話だからいくらか言葉に出来てるだけで、ほんとうは、自分のことなんてもうぜんぜん言葉なんて出てこない。言葉がまるで出てこない状態なのだ。形容する言葉が出てこないというのは、それはまたそれで腹を殴られるようだ。けれどそれを受ける体もひょろっこくすっからかんだから、殴られたところでダメージもあるんだかないんだか。
夏休みが終わって実家から1人暮らしへ戻ってきて、すぐに何か取り乱している自分には気づいていた。けれどそんなじゃ1人暮らしもやってけないし、未だにんなこと言ってるのも幼稚でばかばかしいし、とにかくきちんとしなきゃいけない自分を作らなきゃいけない。だから、そんな自分は見て見ぬふりをするしかなかった。べつに見なくたってどうにかなる。もう1人の自分がちゃんといるから、そっちでうまくやってける、そう思ってた。けど、そんな上手くやれるわけがなかった。白目を向いている自分。レポートという対象がいることによって、自分の気持ちの居所の無さは解消することが出来ていたはず。考える行為をそちらへずらして精一杯やってるフリをしてれば済む。それで、ちゃんと考えている自分を作り上げられる。でも、レポートが完成してしまったら、もう自分の気持ちの相手をしてくれるものは誰もいなくなった。どうしようもなくなった。体内に灰が降り注いでいるようだった。そうして結局自分に向き合わなくちゃならない。
昔なら、悩み出したらそれだけをしていられた。悩むこと以外出は来なくなった。でももう今はそんなことしてられないの。私は生活をさせてもらっていて、生活をちゃんとしなくちゃならない。もう道を踏み外せない。最低限でいいからやるべきことやらなきゃいけない。最低限も出来ていない現状にもう何も外すことは出来ない。今も今までも十分最低最悪にやってきて、また何かやってしまうとか、もうありえない。とかいうルール的な縛りつけだけじゃあもちろんなくて、もう単純に自分の体がそうすることに慣れているのだ。毎日をこなす自分がいる。朝の時間に起きてご飯を食べてお弁当を作って家事をして学校へ行って真面目に受けて帰ってきてしっかり夜ご飯を作って食べてまた家事をして眠る。そんな自分と同時に、何もなくてどこへ自分を向かせ、置き、考えればいいのかまったく分からなくて頭からっぽにして涙流すことしか出来ない自分もいる。どうしてそんな、いやらしくも二つが同居してしまうんだろうか。自然なことで、当たり前のことかもしれないけど、今はそれがとても嫌らしくて汚らしくて、どちらも同時に少しずつどんどんと崩れていくようなのだ。


まったくこの文章何いってんだか?