こないだのゼミにて、金井勝という監督の1969年に制作されている『無人列島』という50分ほどの映画作品を見た。先生の授業は一回生の頃からずっとまじめに受けてきたおかげで、先生が見せる映像はどれもしっかり見ているはず。先生の専門分野ということで、前衛映画や実験映像、ヴィデオアートなど、いろいろなものを見てきた。へんなものも、素晴らしいものも、いろいろと見てきたつもりだった。しかし、やはり、まだ知らない世界は果てしなくあるものだと思った。

無人列島は、今まで見てきた中で、一番ものすごかった。なんてひどいと思った。しかし同時にそれを抵抗なくすんなり受け入れることも出来るようになっている自分がいた。ふーむでもまぁ面白い作品で、とてもおもしろいと思う。私に知識があればもっと楽しめるのだろうな。

主人公が日出国という名前で、その人が突然ある夫婦、部屋に新聞紙を貼りつめようとし、日本中世界中を新聞紙で貼りつめようとしている夫婦なのだが(といっても野望を大きく抱いているのは夫で妻は冷めている)、そこに日出国が現れこの作業に先を見出せない妻を、そのような言動をするやつは許せないということで襲い(夫はあわあわしながらも行動で止めに入ることは出来ずぺろっとはがれた新聞紙をせっせと貼りなおしている)、そして殺し、そしてその妻からはふんどし一丁みたいな男たちが5人くらい生まれてくるという流れの場面があるのだけど(言葉だけで聞くとなんじゃそりゃって話だが、見ていても、あっとうされた)、やはりそうゆう場面において、小さな教室の中で男の人の方が人数多くいるという状況は、体内で少々の吐き気を感じてしまう感がある。まだそうゆうとこはちょっと生理的に受け付けられなかったりするなぁ。まぁ、そこまでじゃないんだけれど。なんかもうそれよりもびっくりあんぐりしてしまったし。んぐぐ。

先生のゼミには毎年きれいな顔した男の人がいて、そして大抵その人たちは皆同じような方向、先生と同じような方向に向かっており、それは個人がある程度元からそうゆう素質を持ってのことだとは思っていたけど、いややはり先生が見せる影響もそれなりにあるものかもしれないと思う今日このごろ。先生って、きれいな男の子にもてる。その関係性はとても理解出来るものなんだけど、説明するのはややこしくむずかしい。なんかでもそうゆうのを最近とても目の当たりにしていると、芸術家の世界に男の人の割合が多く占めているのがとてもよくわかるような気がする。今はまたちょっと違うかもしれない分からないけれど、近代あたりくらいまでとはイコールで繋がるような世界な気がする。あー日本語おかしくなってきたと思うけれど。古いかんじといえば古いかんじかもしれない。
私は女ということで、もうそれだけで蚊帳の外になるしかないような気がしてしまう。最初から負け。なんかもうそれで実際適わないのが目に見えているから、しょうがないし。それでもそこにいようとするのが自分のようなものなんだろうかなぁ。ああもうそれはそれでスッキリとできて、スパっと切れるものかもしれない。

ということで、私はやっぱり安吾が好きだと思う。図書館で借りた安吾風来記という本を昨日一日で読み始め終えた。クラクラ日記では結婚以後のことしか分からなかったが、それ以前のことが随分と知れたのでよかった。しかしやはり安吾が死ぬときの話は何度読んでも涙がぼとぼとと出る。安吾の死が悲しいんじゃない。それまでイノチガケで生き続けてきた人、それでももちろん死ぬということが、こんなにも痛く突き刺さってくるんだ。ああそう一番興味深かったのは、安吾とその父、母との関係。これはとても興味深い。つうか安吾が興味深いよそりゃあ。


無人列島●金井勝は童話「ねずみのよめいり」の哲理について夢想し続けていた。ある点より出発してふたたびその点にたち戻る。そしてこの不条理なる経路を<輪>と呼ぶなら、<輪>は大小、縦横、あるときには楕円形にゆがんでそこに絡み合っていた。やがてこの<輪>は球体をなし無数、無限に広がりを見せて、宇宙空間の引力の様に堅く結びつきボク達を包装して微笑っていた。金井はこの不条理なる輪からの離脱をイメージに『無人列島』の製作にとりかかった。その絶望的哲理との闘いは拡散する無数のオブジェを産み、ある時には猟奇の世界を形作り、ある時には悪夢の世界を放浪するのだが、その輪から見事離脱する先には<死(タナトス)>が待ちうけているのであろうか!?