液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

今日は授業が休講だったもんだから、ほんとうは一日使ってひとり映画祭をしようとおもいたくらんでいたのに、結局、昨夜から気分が乱れまくり暴食しまくり気持ち悪くなっていて、結局朝目覚めても様々なものが乱れていてやる気が起きず、映画祭は中止に。A4サイズの紙に青い色のポスカやマッキーペンでなぐり書く。そしてそれを部屋の壁に貼り付ける。ああ、最近、どんどんどんどん、とても、部屋がカオスになっていく。でも、なんか、もう、それも、有りなんだとなっている。お昼を過ぎて、そろそろ結論を出さねばと携帯に向き合う。メールを打たねばならない。逃げようとしていたのだが、いや、と思い直して、16時過ぎには学校に行くことにした。
手伝いとして参加することのミーティングに参加した。参加して、やっぱり、よかった。うん、そうおもおう。それが終わってからは友達と人が減るのを待ってお喋り。そのあいだに、ひさしぶりに、すきな人を見た。彼は靴紐をむすびなおして、サークルへ向かっていった。あぁ、またわたしの知らない世界へ彼は行ってしまう。わたしの知らない沢山の彼がそこにはあるのだろう。そこには彼があるのだろう。それを思うと、とてつもなく切なくなる。嫌になる。きらいになる。くるしく、むなしい。きらいだ。
そして友達と買い物をして、彼女の家へ行った。延々とアートの話を、学校の話をしていた。五穀米に絹豆腐をくずして乗せ、のりとゴマとネギをふりかけ、醤油をまわしかけ、フランスのポンピドゥセンターで買ったというへんてこりんなキュートなお箸で食べたそれは、とても美味しかった。サラダも美味しかった。それからお酒を飲んで、夜風にあたりながら、またより一層深い話をした。狂うことを分かり合えて、とてもよかった。とても楽しく、気持ちよかった。またクレイジーしようねと言って23時過ぎに帰った。アートは、とても、おもしろいのだ。



昨日はBill Violaの80年代頃の作品をふたつ見た。ビル・ヴィオラの作品は美術館で2.3度目にしたことがあり、それはとても印象的に強烈で、意味をつかめるわけではないけれど、すきだとおもった。またなんかナム・ジュン・パイクと並んで名前のひびきがいい、すきだ。
この人は、なんて器用な人なんだとおもった。なんて器用にものごとを考え、また、なんて器用に編集作業をしているのだ。すごい。同時に、ヴィデオ・アートにおける可能性というか、表現方法の深さを思い知らされた。すごい。おもしろい。そしてまたそれはわたしが映像世界の表現者に惹かれる核心を少しばかりついてくるような気がした。たんじゅんに、わたしが注目するテーマなどが、映像世界ではよく描かれているし、それがわたしには一番入りやすく伝わりやすくと言うようなことなのかもしれないけれど。しかしそのような映像を通して、わたしにはわたしが欲しているテーマと向き合うことが出来ていくような気がする。映像世界はその手助けをしてくれているように思う。ゼミを通して、それは更におもうこと。映像世界の手段は、ストレートで遠まわし、かな?まだよくわからないけど、すきだな。すごく。
だからこそなのか、月曜の授業の課題には真剣に取り組んでいきたい。今年もっとも真剣に取りくもうとしている、取りくみたい、できるだけ納得のいく作業をしたい。ただやっぱり映像はセンスが必要かなぁと思うので、それはどうにもならないか…。まぁだから、できるだけできるだけ、課題作りということに対して真剣に考え取りくみたいということで。ちゃんと作品作れるといいなぁ。どう作っていこうかなぁ。なやむなぁ。どう出来るものかなぁ。




戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して剛鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられれず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾 堕落論より
安吾のこの言葉にわたしは常に揺さぶられているようだ。

だれでも、青春の日、人生にはじめてまともにぶつかる瞬間がある。そのとき、ふと浮かびあがってくる異様な映像に戦慄する。それが自分自身の姿であることに驚くのだ。それはいわゆる性格とか、人格という固定したものではない。いわば自分自身の運命といったらいいだろうか。
自分自身との対面。考えようになっては、きわめて不幸な、意識の瞬間だが。
そのとき人は己を決意しなければならない。人生誕生の一瞬である。
それからは生涯を通じて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない。精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ。
もちろん貫くには、瞬間、瞬間、待ち受ける膨大な障害がある。それはこちらをねじ曲げ、挫折させ、放棄させようとする。だが、そのようなマイナスは、それと徹底的に対決することによって自分を豊かにし、純化し、深める、いわば触媒であるにすぎず、そのたびに己は太く、強くなるのだ。どんなことがあっても、自分がまちがっていたとか、心をいれかえるとか、そういう卑しい変節をすべきではない。一見、謙虚に見えて、それはごまかしであるにすぎないのだ。

岡本太郎

太郎ちゃんのことばはとても強烈で、これは、まだまだとてもやわらかい。この人はどうしてこんなに突いたことばを言えるのか。そこに至るまでにどれだけのなにかがあったのだろうか。そのエネルギーは一体どこからやってきたのか。太郎ちゃんって、すごいとおもう。