液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

古着の花柄のワンピース

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大量に鳴きせめる蝉の声にデートコースの構造と力を鳴らす。不思議と悲しくなってしまう。私は何度もこの音の中で踊っていた。確実に。事実に。それはもう過去の思い出でしかない。過ぎ去った在るもの。それでも今でも音は鳴る。


人と付き合う時、それは、1人では見えていなかった自分がとても露になってくる。本当は、本当は、普段は誰にも自分にも見せていない自分のいやらしいような、自分勝手な願望のようなものが現れて来る。それはどうしたって自分。わたし。そんな自分は嫌いだ。他人には甘えられない、頼れない。方法を知らない。そうやって逃げて人を傷つけてしまう。自分を自分の中にいれたまま、見せずに、かっこつけて。
人と人なんて伝わりあうことは出来ない。だから小さい頃から誰にも相談なんてものはしなかった。だから母親に何も言えなかった。言ったって、意味がないと強く信じていた。そうやってずっとずっと自分の内にこもっていた。でも、何ヶ月もの時間を通して、私は伝えること、伝えられることを知った。
全て伝わりあうことは出来ない。だから必死であの手この手で伝え合う術を探る。伝わるということを疑うからこそ、伝えたい伝わりあいたいという願望が生まれている。すがろうとする、信じようとする、本当は信じたいのではないか。だから常に疑い続ける。
そうゆう考え方、私も彼も同じだと思う。私には彼はいつも攻撃的に見せて、本当はそれは保守的なのではないかと見える。でもそれはただの見方のひとつでしかない。彼には彼の、私には私の、人には人の生い立ちがあって、それで現在を生きている。それについてどうこう言うのはとても薄っぺらいものだと思う。それがその人でしかない現在。過去も現在も未来もその人。何を言いたいのかよくわからない。
ことばにするのは簡単じゃない。言葉はいつも外部にあるもの。内部にはないのではないか。伝えることも伝わることもことばではないと思う。最終的に。いや、とか、なんかそうやって言葉遣いは、どうだろうなと思うし、かなり危うい文章になってしまった。まとまってないなぁ。
でも私は伝える努力をして生きたい。どうせ伝わらない。伝わりきることなんて望んでない。そのうえで、どこまでやれるか。自分が自分の持ち物でどれだけ伝えようとすることが出来るか。全然簡単じゃない。その苦しみは、ひとりではないと、思う。



久々に出したモノクロ写真。うーん、結構気持ちいい写真が多くてなんだかうれしい。一眼レフを購入したのは2年前の夏。だから、3回目の夏なのだ、今年は。夏はいつも思う。この夏を撮りたいと。4年ぶりに行くライジングサンにはどんな夏があるだろうか。どのフィルムを持っていこうか。それをずっと悩み楽しんでいる。うーわくわくする。4年前、5年前の写真を見ては懐かしい。でも全然色あせていない私の中では。さて、今週には実家へ帰ります。ちびちゃんは元気しているかしら。猫。帰ったら、読書と、勉強と、論文するんだ。制作はしばらくお別れになってしまうけれど。映像作品を作り始めている。今はとりあえず編集作業の練習中。幾つかパターンを作ってみようと思う。そこから本当のことが自分の中から出てくるかもしれない。今日も学校だ。午前中には転校生を見ようと思う。