黒のスパッツ


なんだか、最近の中では気に入っている写真。



日曜日に1人暮らしに帰ってきた。またいつものように早く実家から逃げ出したかった。どうしてだろう。どうしてそんな自分勝手な醜い気持ちを抱いてしまうのだろう。私は安吾の小説の中で、私は海をだきしめていたいという作品を好いている。それには色々とあるけれど、冒頭の文章がたまらなくすばらしいと思うひとつがある。前にも何度も引用しているかもしれない。しかしそれはつまり私の生成をしている証拠と思う。

私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、馬鹿のようにたわいもなく落付いていられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないという人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツケられて、叩きのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして真逆様に落とされてしまう時があると考えていた。


そしてつづく。

私は悪人です、と言うのは 私は善人です、と言うことよりもずるい。


これを読んだ時に、今でもそうだけど、言葉に出来ないものが生じる。ただひたすら臓器のあたりがドクン(気持ち太字)と大きく揺さぶられ、まるでそれらは輝くようになっているんじゃないかと思う。16のときからこれらのことばは忘れられない、忘れるわけがない。それは光の筋となって染み付いている。だからね、やっぱりね、安吾って大好き。ってそうゆう話がしたかったわけじゃないんだが。いつもいつも。




彼は傷つくのを恐れる。恋愛なんて、付き合うなんてわからないと言う。今の関係が壊れるのが、失うのが怖いと言う。彼は私を好きと言う。大好きと言う。体だけじゃないってこと、どうやって伝えたらいいのかは分からないけど、その手段は体と言う。そうゆうを彼を、私は信じきれない。不安になる。彼自身が自分自身を分かっていないんじゃないかと疑ってしまう。わからないと言うのは、分かろうとしていないと思う。傷つくのが怖いから。自分を傷つけないために守って守って生きている。私にはそれがとても怖い。それでは、好きと言う言葉に何があるだろうか。こんなことを思ってしまう自分がだめなんじゃないかと思う。その関係性にあわせればいいのではないかと思う。でも私は、傷つくのが怖くて失うのが怖くてなんて、そうやって繋がろうとすることは、おかしいように思ってしまう。第一に、そう言われる相手として私が怖くなってしまう。彼の気持ちも凄くわかる。だから私の言うことは矛盾している。それでも彼を何も考えずに受け入れてあげることが出来ずにいる。どうしたらいいのかわからない。そして結局私は傷つけてしまう。私は結局やっぱり私のことしか考えていない。ヒトの気持ちを考えてない。無視している。どうしてそんなことをしてしまう、私、在る。不安で怖いのは私だ。ヒトのせいにしているだけなのではないか。