さては、明日には重い重いからだを持って実家へ帰るとしようかな。帰る場所はあるのだろうかと、いつも不安になる。すると一気に遡る。自分のしたことはやっぱり間違っていたんじゃないかと。あまりにも今更すぎると毎回思う。なんてくだらないと思う。こうゆう虚しさは消えることがあるのだろうか。
私は気づいた。自分が母親に受け入れてもらえるのかどうかということ、それに対してとても過敏になっていること、それらに私は常に脅かされているのではないかということ。家族、ではなく、母なのだ。なんだか、それに決定的に気づいてしまった。べつに私は母の顔色をうかがったり、母の言うとおりに動こうとしているわけじゃない。むしろ、いつもそれに抗って来た。しかしそれでも母親というものは大きい。
母に私が受け入れられないこと、否定されること、それを私は最も恐れている。私は簡単に人に頼ったり甘えたり出来ない。そのこと自体を自分に受け入れられない。出来ることなら自分でやれることは全て自分でやる。他人とこころなどを通わせようとすることは、私には簡単なことではないから。しかし母親はきっと違うのだ。無意識にそうつなげてしまっているのだろう。血の繋がりをもってして他人とは違うともいえるが、それでもやはり私と母はそれぞれの違う個体。分かり合うことはないのに、わかりあえないことを恐れることに、過敏すぎる。自分には伝達能力がない。それを責めず、他人を責める。私はそうやって生きてしまう。
夏に、数年ぶりに胸らへんまで伸ばした髪の毛を突然自分でとても短く切った。私は意思を持って伸ばしていた。しかしそれは簡単に刺し傷つけられた。それは簡単すぎるだろうと我ながら思う。しかしそれは象徴している。私は我が強くあると自分で思っているはずなのに、それが揺らいでしまうという不安感も同時に沸きあがる。この行動はそして結局受け入れてもらえるものではない。ただ、滅茶苦茶に破綻しそうになる自分の憤りの結果の行為。いいものではない。
私とはなにぞや。
- 作者: 岩井俊二
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1997/09
- メディア: 単行本
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普段あまり文庫本を購入することはないのだが、今日は3冊買ってみた。カフカと、新訳のドストエフスキーと、嶽本野ばら。明日の新幹線で読むとしよう。