液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


あれれ、れれのれ。2008年最初の書く。ずっとmixiを更新することを覚えてしまったためか、すっかりおろそかにしてしまっていた。なぜ私ははてなダイアリーを書き、続けるのかというと、やはり、mixiのように閉ざされた特定の人に向けたような場所ではなく、webという大分開かれた場所にありたい、そこで書きたいという意思がずっとあるからである。私はこうゆう場を信じているのかもしれない。写真のアップがやりやすくなった、ような?変化はあるのにそれが定かでないというはかなさあやうさ。いいなぁ。

一ヶ月前、卒業研究において学科内でのいっとうしょうを私はもらった。それからの一ヶ月、私はどんどんどんどん、どうしてなぜ私がもらったのか、もらうになってしまったのか、なんでどうして私みたいなのがそんな賞をもらってしまっていいものか、いやいいはずがない、間違っているまちがっているお願いだから取り下げて欲しい、ゼミの先生だって今となっては私をゼミ代表にしたことを間違えと思っているのではないか、そう間違いだったと私は確信してしまう。賞のせいにしてはいけない。それはなにも悪くない。しかし、それはくっついてくる。誰も気にしていないかもしれないが、私もあまり気にかけてないように思えるが、その距離がなければないほど、見ようとしてしまう。いっとうしょうにふさわしい人は他にいる。あのこやあのこやあのこやあのこや。そう思うと、自分がどんどんむなしくなってくる。思う気持ちがゆらゆらとやかく無数の波のように押し寄せてくる。わたしはそれらを限りなくうけとめる。

今週の月曜日、2月11日からは大学内ではなく大阪市内にて学科の卒業制作展をやっている。私は卒展の場所での展示についてはそれなりに考えてきていた。今までにやったことのないような場所。一番違うのは天井がとても高いということ、大きなスペースにみんなの作品と一緒にあるということ。先生と相談したり、試作をして、いくらか決めて搬入に挑んだ。しかし失敗した。そして初日の午前中に変更させた。しかし、やっぱりだめなのだ。ぜんぜんうまくいっていない。あれだけスペースもらっておいて、いっとうしょうもらっておいて、あんなということが、苦しくて悔しくて悲しくて。自分のうやもやが消えない。他人にもうやもやを見出す。

そういえば一ヶ月前から直接的な理由は移ろいでゆきながらも泣くことをやめない。自分で納得できていないから。自分が見えていないから。今日は午前中から夕方まで卒制展の受付当番だった。先生や友達と喋って、またどんどんと迷いが出てきた。一人になると、突然それらが形をなくしていつのまにか皮膚を通り越してからだにはいってきていつのまにかからだの中身がさっきまでのものとはまるで入れ替わったかのようになっている。それくらい変わる。泣くことは最終的には私的なことだろうか。