液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


一ヶ月、いやもっと前かもしれない。ずっとここを稼動させようさせようと思っていた。方針もあやふやながら自分の中では決まっていた。ミクシィとは違う方向を向く態度で書くこと、ミクシィでは書こうとしていないことを書くこと、自分の中でだけ常にめぐりめぐらせている言葉を出すこと、そうゆうような具合を記していこうと、そう何度も思ったはずだ。なのに、しないまま、どんどん時は過ぎる。それは、なんだかんだで逃げているのではないかと見て取れる。自分の中で沸きあがる言葉というのは、様々な細かな瞬間にとめどなくある。どうでもいいこともあれば、大切なこともあるし、形をとどめないものもある。消えたようでも消えないもの。それは重要なことなのかもしれない。くだらないのであるのと時を同じくして。こころの中でたちあがりはすりかえられていく言葉は、都合よくも思える。儚く、危うく、憎い。その言葉が憎いのだ。私はそれらを非常に恨んでいるのかもしれない。だから、その恨みは本意かどうかはっきり見極めねばならないように思う。私はそうゆうことをここでしたいと思うのだが。

実家に帰ってきて、一人暮らしでの行進の姿勢とは状況が変わった。私はパソコンの前で長文を長時間かけて書こうとする。しかしインターネットの繋がったパソコンはリビングにあり、家族がいる状況でその日記を書こうとする姿勢は非常にやりにくい。自然と実家にいるときは日記の更新が少なかった。恐らくもっと以前ならそんなこともなかったのだろうが、なにか変化をきたしてしまってからはうまいこと運べない。このまま書くことから遠ざかろうかとは何度も思うが、やはりそこはとどまる。耐え難いそれは。なので、書くことをいかにして続けるかといえば、自室のノートパソコンのワードパッドでまず書き、それをスティックメモリーに保存して持って運ぶということにすることにした。深夜におけるリビングは人が空くが、すぐ隣室が両親の寝室でもあることから音や光が迷惑をかけるため居心地が悪い、という状況をクリアするためにもこれが今のことろやや有効になると思う。本当はそのアップする場のフレームで書くのが一番やりやすいのだけど、いたしかたない。ただどうしても面倒なので、慣れと努力が必要と思う。

出来れば一日記一写真もちゃんとやりたい。沸き立ちは交差してあぶくしていくものをいかにするか。実家に帰ってきて、改めて色んなことを分かれてきた。わからないという問題を、わかれてきた。今までは大阪の一人暮らしへ戻れるからといって見て見ぬふりしていたのであろう物事の存在からはやはり今の状況となっては逃れられない。ここで暮らすということは、そういうことだ。実家に帰ってくる前からそれらはずっと考えていたことだけれど、予想以上であった。あたりまえか。なによりもまず、生活だと思った。暮らすということだと。私にとっての問題、立ち向かうこと。しかし生活の枠は考えていた以上に大きいわけで、小さな枠しか持ちえていなかった自分はいつまでも押しつぶされたままの醜態のまま。こんなことを吐いているだけではならないのに。