過食しては下剤を飲み、下剤を飲んでは乳酸菌飲料やヨーグルトを摂取することに奔走し、ということを何度も繰り返してはふえる過食量にどんどん慣れていってしまった感覚を止められなかったのは今となっては後悔ばかり。もちろんその都度もだけれど、1〜3月にかけては本当にどんどんと加速していたようで、気が付けば体重が3.4kg増えてどの服もきつくなっていた。さすがに大ショックだったが気付いたときは遅く、過食する日々を止められぬ体質になっていた。さまざまなイライラのなかでも、無理矢理に薬を勝手にやめたことが大きな一つだったかもしれないなぁそういえばと気が付いた。断薬の止まらない頭ががんがんとするふらつきから必死に逃れようとしたし、ちょうどもう一つの大きな騒がしい時期も重なっていたから、あのころの欲望といったらすさまじく醜いものだったと思う。そこらからずっと下剤だったのがまたよくなかったんだろう。下剤は体に本当によくなくて、でも飲んでいる、というのはマクドナルドと同じようなことか知らん。そういえ
ばと思い出せばあの時期は、もうなんやかめちゃくちゃな錯乱状態をどうにか見知らぬふりをして平気にやり過ごそうと全て無意識下の自分が意識上の私が関わらないようにコントロールされたまま生きていたかんじたなぁと思い出す情景は、あまりに自分がない自分の記憶でないような記憶。すべて、マヒした手足でしか探れない。あの2ヶ月半ほどの記憶が今はとても憎々しい。殴りつぶしてしまいたい。
そう思うというほど、そこに何かがあったのだろう。それなどのせいにでもしとやってられないのだろう。そんな自分がとてもみにくく、みじめだと思う。ほんと、ちっさなことにこだわって、自分以外のせいにしたがるのだなと思うとかなしくなる。この感情のできあがる構造にやりきれないものだけは残る。結局いくら過去を嘆いたって馬鹿馬鹿しいし、くだらないし、そんな考えをもつこと自体くさってる証拠でそんなものはほっとけばいいと、なれたらいいのだろうな。そう思うことは可能なのに、どうしてその間にさまざまが入り込んでくるのだろ。そんな小さなこころにすいと飲み込めることがあるだろか。


はたもやけいたいからでしゃしんがなく文章全体のとおしがみえていない