液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない




ふと、過食する理由(無意識に起こっている)がわかった。これまでにもわかっていたといえばわかっていた。しかしそれは実家に帰るとか食する、つまり家族の中での自分の問題というある程度の枠までしかわかっていなかったし、どうせまたそこを離れられることを考えればそれ以上追求しようとはしなかった、つまりわかりやすい逃避をしていたしそれを許していた。それに、わからないが何かしょうがないものだと思っていた。きっとどうしようもないことなのだろうと大雑把に考えていた。それが明確に捉えられるときがきたというべきか、わからざるを得ない瞬間が落っこちてきたようだ。やはりとても簡単なことであったのに、どうして今までよくも気づかずにやり過ごせたものだと思う。ずっと目の前に見えていたことそのままのことなのに、なぜそれを無視していたのだろう。無視をしていることに何の不審も抱かないでいられたとは。なぜそんな風にして物事は成り立ってしまうのだろう。後になってこんなにも嫌になるという。その無視していたことも、無視に当然でいられたことも、それでそのままに生きていたということが。

自分を悪者だと思っている、信じている→悪者の自分は何も言わずになんでもしなければならないしそれは当然出し当たり前なのだら全てを飲み込んで見返りを求めず従順にせねばならない寧ろそれ以上を行うべきと考えている→なのに時々その納得しているはずの気持ちが憤慨してしまう、つまりそれらは納得しているようであり自分自身に言い聞かせ抑え付ける言葉であった→自分の思考のいざこざが発生する、自分に課した規律に自ら反抗する気が生じているという物事がうまくかなっていないという苛立ち、それらの積み重なり→よって胸中への苛立ち、痒み、によりとにかく食べものを食べ続けなければならないとなる

私は自分でそう解釈をした。自分の中で最も無視していた点は自分に説いたことに対してうまくやりきれずその考えに逆らう気持ちが生じそれは素直に怒りとして沸き起こるということ。私は自身の怒りを認めていなかった。怒るなどという気持ちが生ずることは断じて許されなかった。そしてそれを沈めては平静になろうと努めることが重なると結局相反する気持ちにより自分の中で爆発してしまいどちらが正しいのかわからなくなり食べ物を口に入れ続ける衝動を引き起こす。

もうひとつの理由としてわかるのは、家という小さな箱においての平日の朝の光景、状態に私がついていかれないからだろうと思う。私の実家での過食はひとつのパターンしかなく、それは朝から昼までの時間帯であり、誰もがいなくなる平日にしか起こらず、様々な眼がある休日には絶対起こらない。皆がせわしい空気の中に、一人だけ場違いの自分がいると自分の悪者さが一層引き立つ気がする。誰もがそれを責めず、ただその状況があることが一番に攻め立ててくる気配を感じる。窓の外の太陽光も植物もテレビや新聞も食パンに紅茶もどれもが朝という光景を作り出し、世の全てが朝を迎えている中、家の人は朝らしく時間に追われあっという間に姿を変えていなくなっていく。全てを捨て去るようにして行く。しかし同じくそこにいる私だけは誠実な朝を迎えていないという苦味を感じる。そうやってこわくなってしまう。言葉にならない寒気がいつのまにか押し寄せていた。悪者と自認する前に状況が差し迫り脅迫するように感ぜられる。とは全て後になってから言葉として言えるものなだけであって、実際のときは何の言葉も見出さず、知らずうちに全ての律する言葉をこそげ落として執念のようにして食べている自分がある。何かに逃れようと、こんな気持ちははじめから何もなく何もおかしいことなどないかのように。

それでも近頃はようやくおさまってきた。予想はつけていた。きっと帰った初めのうちは過食の日々があるだろうが、それを続けるわけにはいかぬのだから、どうにか自制させなくてはならないだろうと。それでもそれが治まった代わりに、こんな風に平日の朝にする過食の原因を受け入れたらいれたらで、夜中にでも過食をするようにできてしまった。自分の気持ちを抑え付けられなくなると、ええもうどうにでもなってしまえと自分を解放させてしまう。いつだって自分を鎖につないで見張ってなければならない。そうしないと、そのたびに惨事が起こり、後悔をし、それによってまた新たな道を開こうとしてしまう。そんな風に自分を管理して生きることは愚かだと見える。このようにせず暮らしていた頃とは、まるで嘘にしか思えない。