液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない



勤務4日目のきのうは、朝の一番のラッシュ電車にもまれど緊張を抱えた仕事場で、疲労困憊。えたいの知れぬ汗がしたたるので気持ちが悪かった。まああとにかく場をつんでいくしかないので、まだいくらかはこの状態が続くのだろうな。しかもよくもわるくも外の現場に行き続けることになりそうなので、荒波にもまれそう。まあそれのほうが早く覚えられるかもしれないと思うことにする。

撮影はお昼過ぎに終え、お昼ごはんは帰って事務所近くで食べる。しかし午前中に緊張状態にあると、食欲がまるで霧のようになってなくなっているかんじがする。もややとあるような、ないような。ぐってり。しかしいれる。

わたしはその、個人でやっている人についているから、普段は常にその人といるわけで、面接の時から考えてこのひとは何座だろな〜と思っていた。こうゆうとき比較しようとする対象として出てくるのは大学の先生たちだった。冷静でよく笑う感じはみずがめ座の先生を思い出すが、でもみずがめ座にはもっとぴっと直感にくるものを感じるから少し違う気がするかなと思い、でもきっとうお座ではないだろうと思い、やぎ座かどうかは全然わからないな…(あまりやぎ座について詳しく考えたことがない)と思い、しかし出身地がゼミの先生と同じだったのでなぜかそれだけですこし嬉しいというのも変なんだけれど、おお、と思うところがあった。その出身地の人は大学の友達ではいなかったし、あまり会わない場所という事もあり。そしたら星座も偶然にもゼミの先生と同じやぎ座であった。こころのなかではほほーう!と何かが上昇した。なんていうか、あらためて私にとって先生はおおきなひとであったのだなあと思う。ことばにできないが。4年を通して先生を観察してきて、関わってきて、そのやり方というか方法というか、いってしまえば生き方みたいなもの、それにいつもよく、へえぇ…と思うものだった。最初はそれのことがよくわからなくても、どんどんそのひとつの行動、ことがどうゆう過程のもと、結果のもと生まれていることか、どうゆう意味をもったうえでのことかがわかるようになって、それはもうへえぇ…からうあああ…に変わるものだった。そうやって、ひとつひとつを思考したうえでのこと、ということが、私には衝撃的で、それは誰しも日常的に経験からものごとを構成していったりするんだろうけど、先生のそれは他とは違う静謐さをまとった深さみたいなんを感じた。ほんとうに先生という人なんだと思う、私にとって。でもまあだからやっぱりはなれるのは怖かったな。

そうゆう大きな基点みたいな人だもんで、そこにどんな要素でも、私にとっては星座というこころの持ちようとしてちゃんと役割を得ている要素において類似するものを見つけれたのはなかなか面白いなと思う事だし、なんとなくほっとするよな安心をもてたりする。先生には冷静でブレのない安心感みたいなものを見てたので、そゆとこは同じ気質があるのかもと思ったりする。なんか話してて、うんと自分がうなずける感じが強くあるかんじ。頭がいいんだろなーと感じるとこも同じだが、まあそれについては星座で考えない。

日によって朝早かったり、昼からだったり、それはやりやすく思う。



こないだは都現美へ「パラレル・ワールド もうひとつの世界」という展覧会を見に行き、その日に出品作家である内藤礼ともぎけんさんの対談があるということでそれを聞いた。てか、内藤礼の作品がすごかったああ。うわ、もう、ほんと、こうどうしようもなくこころにからだにばぐんとおおいかぶさってくるものは言葉がないにつきる。右胸あたりにバズーカ砲をうけるようなイメージ。全身から涙のよなものが沢山の粒として出てくるかんじ。ああゆうものが最高なんじゃないかと思う。最強っていうか、そうゆうもの見ると、なんもいらなくおもえてしまうもんだ。つよいな、と思う。とても繊細ではかなく、近づくことさえ許されないような気を感じるのに、しかし強いのだ。そうゆうことだ。
対談はなかなかおもしろかった。内藤さんはイメージ通り細い人で、言葉を簡単に吐かない人であった。そうかそうかあと思う話が聞けてよかった。もぎけんさんは一年前にも横浜美術館で話を聞いたなと思いだす。


そしてさらにその少し前には、写真家古屋誠一のアーティスト・トークをオペラシティギャラリーに聞きに行き、これもやっぱよかった。とてもおもしろかった。ますますファンになった。写真集という媒体が重要なものという話を聞いて、お給料をもらったらこの人の写真集を買うことをずっと考えていたからああそうかあと、写真集にこめられるものということを考えて自分が買うということをするのは安易なものでないなぁみたいなことを思った。写真家の中でもだいぶ好きな人。