自分というものは、自分自身と感じることの出来る身体を持ちえていることから確認いらずの認識をしているように思うし、またその身体に乗っかり身体とともになっているものはひとつと感じている。自分と理解できる自分がそこにはあるはずだ。自分とわかる、自分と受け入れている、ひとつのものがあるんだと思っているに違いない。でもそうじゃなくなる。自分の知らない自分がこの同じ身体の中にいる。その知っていると想定されている自分というのは、今までにたとえ悩む姿などを持ったとしてもそれそのものは自分として容認できるものでいくら絶望的になってもなにもぶれのない筋が通っているようなものの姿。でもちがう、そうではない、自分で自分とは信じられない発言や行為を持つ自分がある。それは自分と認識している自分のなかでは無意識に避け、見ずにいようとした事柄のものと感じられる。無意識のことに気付いたとき、そうだったのかとそれを受け入れられることはある。大抵それで通るのだ。なのに受け入れられない。だからそれは自分ではないと思う。でも自分が発しているものは確実だ。それは完全な無意識ではないかもしれない。どこかで少しはねじれて浮き出てきているのではないかとも思う。それでも今までの自分のみ出なら発しようとしなかった言葉をそれは持つ。そしてそれに出くわしたときに感じたのが、これは自分が抑圧していたことではなかったのか、明確な言葉にすることを避けて逃げて、言葉として拾うことを排除して、陰湿な態度で無限に広がる闇に目をそらして力任せに見知らぬ方へ放り投げておいたはずのことじゃないのか。そうゆう気がした。全然知らないことではない。知ってることのような感じがまとわるつく。しかしやはりそれを自分という今までに持ち続けてきたとこにああそうかで受け入れることはできない。そちらの方が私を占拠していると感じるとき、おまえはだれなんだと問う。わからない。ひとつの種がいくつかの花を咲かすように、もとはひとつなのにわかれわかれの個が同時にあるという感じがする。それは本当に私でしょうか。そう受け入れないのが本当か、すべてがうそか、はじめからなにもないのか。 

両手にはなにもない。そんな感覚が生じること。