液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

qyu2008-10-08

4日土曜日は維新派の舞台「呼吸機械」を見に、滋賀県の琵琶湖さいかち浜へ。や、すごいな。公演後半は今日9日から月曜13日までだが、これはまさに見るべきものだと思った。しかしやはり誰にでも求められるものではないだろうから声だかにもいわないが、それでもこれをこんな世界があることをたとえば人は知ったらどんなものだろうかと思う、めぐらそうとする思いが芽生えてしまう事。

すごいすごいすごい。ああやっぱりこれだから維新派を求めてしまうよな、私はと思った。維新派を初めて見た時の大きな感想は、初めて見た衝撃、だったから、それに惹かれて維新派を見に行くのかも!と思った。舞台が始まって、急激に感じさせられるふりきった強さは、頭んなかがいっきに開かれてしまってそれらが涙液として出て来そうになるのを必死に歯をくいしばって体の放出をくいとどめねばならなくなるほどのもので、体をふみこたえるのはもうそうゆう何か邪魔なものを出すのは本当に邪魔だからで、その時はひたすら目を見開いて眼の前を体感することで精いっぱいだと思う。維新派を見るのを3回目にしてようやく自分の言葉が追い付いてきた。ああそうかあ、と思った。維新派のはじまりのそれは、まるで生まれて初めて「生(せい)」というものを知ったかのような躍動するような緊張と感動を覚えるというか、それよりもっと大きな大きな衝突による文明の始まりのような感じというか、なんか違うんだけど、なんにせよ私においてはそのときはじめて「生」を知り、それがどんなに強くて痛々しくて勇敢なものかを知り、まるで巨人の足の裏に踏みつぶされるかのような感を覚えるそのものの大きさを感じる。またそこに同時に光も生まれ、光の下で見ることのできる「生」というものの存在とか出会いとかが、本当に今までずっと忘れていたんだ、まるで知らなかったかのような、でも人間全体にわたっている昔からの記憶として残されていたものとしてそれは知りえていたかのような。役者全員が白塗りなのが大きいのかもしれないと思う。また特に、群像として観客へ正面を向いた時のあの恐怖ではないが感じるおそろしさにいつも私はびびる。その視線はどこへ向けられているのか、私たちを見ていない、しかしその遠くには結局見られているような。

彦根城天守閣前でひこにゃんひこにゃんバッグから色んな小道具を持ち出し色んな見世物をしてくれるし、ポージングもばっちり。そのたびに観客(?)からは「うひゃあ〜」というようなどうしようもないまぬけなへいわ大衆歓声がもれる。こんなんになんの、きっと日本人特有なんだろうなと思う。いやーすごいなひこにゃんひこにゃん登場時間を事前に調べてきたかいがあった。かわいい。そして彦根城はすごかった。石がすごいな。お城ってすごいな。やはり寺院などとは違う空気につつまれた場所の力。どんな風景が見えていたんだろうなんて思わず思っちゃうもんな。琵琶湖方面から吹く風がとてもきもちよかった。この日はものすごく暑かったので、ひこにゃんもえらくたいへんだったろうな。


舞台は琵琶湖にむかっている。野外に建てられた劇場というのはどんなかなと想像したいたよりも、しっかりとした劇場になっていた。なんかもっとおっぴろげなかんじをイメージしていたような。劇場は劇場として、形をなしていたところがまずすこし驚いた。中に入ってまず驚く、なんせ舞台にあたる向こう一面は真っ暗闇だ。客席にはもちろんまだたっぷりの照明がそそがれていて、だからか余計に席について前を見ればあちらは一体どこまで広がっているのかどうかさえなにもわからない。完全にあちらとこちらは遮断されているようで、でも実際はなんも幕も壁もあるわけではなく、ただ光と闇の分断、というのがとても印象が強い。闇の世界がつよい。始まるのが待ち遠しい。向こうを知りたいと思うのだ。そして客席の照明がおちると、自然とこちらとあちらがなじみ、今まで何も見えなかった世界がうすらと見えるようになるのだから嬉しい。すべてが暗いなかに治まった。ところで、舞台が始まる。

いかに琵琶湖という大きな背景、土地とくみあっていくのだろうかというとこがやはり期待するところであり、もうね、そこはラストにすごいものが待っている。たぶん見に来た人はあれだけで来たかいが、って言ってしまいそうなほどのもの。あの時観客席全体に起こった空気感は忘れない。超高速で植物が芽を出して花を開く映像を見るような、そうゆうなにかとびこえる次元のものがあったようだった。

しかしやはりそこに持って行く順序がうまくなされている。前半は、湖上に作られた舞台なのでしばし役者は水に入るし、湖に浮かぶ大きな月もとても深い広がりを感じ、それらはいくらかああそうかとすんなり受け入れられるものであるが、その後しばらく湖はセットにより隠されていることによって、後半、再び目の前に広がるというよりも、のびるというような琵琶湖がぐんぐんと役者や物語ととけあっていく様には驚愕してしまい、眼を見開き体にぐぐっと力みを覚えてしまう。はじめは幻想的でありながらも海とは違った、それこそ鳥取砂丘と同じような目の前にどどんと突如現れる大きな湖の存在、水の面、個体としての得体の知れぬ初めて出会った困惑の恐怖もあったけれど、後半にはもうそうゆう大きな話の感覚は消えていてもっと小さな細かな感覚で琵琶湖に寄り添えているような感じがした。舞台はいつしか全面が水に覆われる。その中での白塗りの役者たちがあげる水のしぶき、とびちりおちる波紋にいつしかもうなにも考えないようになっていた。ただそこが美しく生きていて見とれる。

前作「nostalgia」は南米を舞台として、ノアの箱舟を引用し、笠戸丸が第一回移民船として1908年に神戸港を出港しブラジルへと到着してから今年で100年を迎えるということをふまえていると思われる内容で、私は舞台で聞いた19080428などの数字を必死に暗記して帰って家で調べてこれらの数字が意味するものを改めて知り、それから今年になってテレビや新聞などで笠戸丸100周年に関する出来事について触れていくことができ、特にNHKの「その時歴史が動いた」は面白かったし、自分が全然知らなかった歴史というものを演劇を通してこんなに知りえていけることの体験がまず驚いたし、ああそうゆうことが描かれているんだという理解にも繋がるし、ああなんていうか、事前に歴史を知っていればもちろん舞台を見て直に理解していくことも可能だし、また事後で知っていくことも可能だし、しかしなんにせよ維新派維新派を主宰する松本さんが描こうとするもの、表現していくものには地理や歴史や社会的なものが確実にあって、それと出会ったからにはもっともっとそれらに自分は踏み込んでいかなければ、知っていかなければならないものと思うようになった。今回の「呼吸機械」は第二次世界大戦中の東欧を舞台とし、旧約聖書に登場する人物名を持った少年少女たちの姿を描くが、そこにもやはり彼らの大きな背景として立ちはだかる土地や時代が濃厚に描かれている。私は歴史が全然てんでだめなので、読み取ろうとするあまり途中ちょっとわからなくてむずかしい…とさえ思ってしまった。もっとちゃんと知らなくては、と思った。まあ歴史的なものが絶対ではなくそんな神経質にならなくていいのだろうし、なによりそこにはしっかり人間が描かれていて、人間の呼吸があって、群像としてもまた個人の姿としても大きくざわめいたその時をその場に生きていこうとする姿、人間そのものの姿だけでなく、土地が時代が生きていくということが関係しているものを見たと思う。

はじめとおわりに繰り返される同じ群像の動き。そこに「呼吸機械」というタイトルを思うと、とてもひりひりする思いがした。人間の生死、と口にするのは簡単だがそれはただひとつの生死ではなく、すべてが関わりあう生死のようなそうゆう感じがした。おわりには、役者たちはみな水にぬれていく。どれほどの冷たさか。その水の上での彼らの動きというのは、あるがまま。

維新派の舞台での役者の動きはひとつひとつが記号的で、記号だからつまり意味をもっていて、直に意味としての言葉を喚起させられる。身体を記号として見ているところが強い。ひとつひとつが内橋さんの音楽にのっていく様は正常さとはかけ離れていて、そこに新しいあり様がもたらされている。どの動きもきっととても困難なものと思う。特に変拍子の曲での群像の動きは、ほんとどうやって作りこんでいくのかふしぎでふしぎでたまらない。またよく袖から舞台上に走ってきて止まってという動きがあるが、あれもとても大変そうに思う。しかし記号的要素が正確に強いせいか、見ている最中は身体がどうのこうのということをほとんど考えていない。3回目で、またいろいろ自分なりに維新派から見えてくることがあって、どわあああああとふっかけられた公演だった。

終わってから物販で今回のサントラを購入。家で繰り返し聴く。ああやっぱりいいなあ。

次回で20世紀をテーマとした3部作が完結する。舞台は日本らしい。野外なのか屋内なのかもなにもまだわからない。4mの彼はいったいどうまた現われてくれるだろうか。ああ、またたのしみだなあ、どこでやるんだろう。うわ。