液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


母が捨てようとしていた古いコートで鞄をつくってみた。秋冬だけに持つ素材の鞄がほしいなとは前々から思っていたので、ウールのコート生地が活躍。裏地も再利用記事。結構たっぷり入る。全部てぬいですがな。




以前作ってほっといたフェルト製のコサージュをつけ、さらに特に意味のない刺繍も2箇所ほどこし、完成。私は刺繍をするときはいつも適当でなんとなく線をイメージしてとりくむも大抵それとおりにはいかず、ふらふらな線になる。まあそれがわりかし断定的でないものに仕上がるのでたのしい。

ちくちくちくちくとひたすら没頭できるのは邪念がなくなりすっきりして気持ちの良いものです。しかしそれだけ実感はあっという間に過ぎており、なにしてたんだろうと後から考えこむというとこに到達してはなぜか落ち込むというとてもahoらしく欲深い話。



 

段ボールで写真立てというか立て形式ではなくつるすしかできないから写真入れというか写真飾りというか、そうゆうもの。なんかかるくヘン。失敗でもなく成功でもない。ちょうどこう真ん中に四角くあいた形の段ボールがあったため、作った。中の写真はそのむかし、これは17さいのころだなー、千葉の川村記念美術館に行った際に美術館敷地内で撮った写真で、今は故障したまま放置となっているsmena35で撮ったのを覚えてるる。千葉までは遠く、さらに駅からも無料バスでぐいぐい進んでいってまったくえたいを知らぬまま辿り着いて、まだなあんも知らない頭で行ったからこそのうるわしい衝撃感がありました。ここはいったい!みたいのと、こんな場所があるんだ!という驚きと安心と納得と発見と、じゆうとがあった「とき」だったのかもしれない。とりあえずやはりsmena35で撮った写真はどれもわるいかんじがなく、好きな写真が多く、少しノスタルジーでここちよい。でもこれ実際部屋にかけようとなったらなんかうまいこと全体になじまず少しへこむ。ところでどうも下線の消し方がわからないんです。


もとはこの写真入れをなんとなくで作って、段ボールにいらない布、というお手軽さと小さな満足感がよくて挑戦するも、私はやはりいまいちきちんとは作れない。まあいいか、という荒さをすてきれず。まあこんなへなちょこ感もいいかなと思えばそれでおさまる。これは玄関にかけている。



右に掲げているカレンダーにて、一行(=一週間のようなもの)につき、一度は数字に下線(=更新される)をつけることをめざす、と決めていたものの、早くも骨折れてしまった。なんつうやわさ。私はなかなか目標達成などができないというか、諦めがちだなと思う。こんなときこそ、とほほ。
メモライズがおわってしまうというときが、たしかちょうど大学へ入るのと重なって、最初はジュゲムで、そのうちはてなへとうつったのだけど、そのメモライズと、メモライズ後によって、大学生活という環境が変わったところによって、日記の書き方などに変化が生まれてしまったなと思っている。よくも?わるくも?なんともいえない。どうしようもないこと。私が書いているということに変わりはないのだから。
なんとなくふと、あれ昔はどう書いてたかなと思う事はときどきあった。空しいことのようにも思いつつ、過去のやり方が正しいもののように見えた。過去と現在はそうゆう行き来のやり方が存在してしまうのだろか。それにはなんかひっかかりがあったけど、かもしれない、の感もぬぐえなかった。結局は書きたいなら書くし、書かないならば書かないだけなんだけど。書くことに固執する感が芽生えてくるようになったことがへんくつの一端なのかも。いつもこうゆうことを思ってしまうとほんと年とっていやだな、17までは(大学入る前までは)むちだったな、そしてそこにはそれがよかったな(それ以後よりも、今よりも)と思っている自分がいる。なんかいくないかんがえだなぁと思う。
過去をその当時の現在で語るのは無理だった事で、だからまあ現在に過去を見るとそんな風になってしまうのもまあしょうがないかなぁと思うことでいいやと片す。それはこれからずっと10代への憧れとしてもっちゃうのかもしれない。それはそれとして、現在を現在で語ることは現在にしかできないのだから、それを忘れたり失ったりしては、やはりならないんだと考える。つい置いて行きそうになる、よくよくなる、しかしそうしていると現在がほんとうに、ほんとうになんの重さも実感もない、へらっとしたわからないものになってまう危機感がある。それはさすがに避けねばならないという自分の神的な位置からのささやきが脳内をめぐった。スパーンとそれだけは明快なこととして受け入れられた。いくら絶望感をかみしめていたとしたって、そこになんの思考も実感もなければ自分にとっては恥と思う。それこそ消えている。自分の消失の前に、消失するそのものがないので、無意味にもならない無意味だと思う。それはいかんだろう。死について思うならば、思うなりの切迫さを失ってはならないのだ。これはむだではない筋ではなかろか。
いくら書くことを目指そうとしても、簡単にその意思を外へほっぽってしまうときがやってくる。それは私の意識の力ではどうもどうにかできることではないようだ。私のなかにいる、無意識が、ほんとうの意志がすべてを支配して私を司る。だから、そのときの私は正しいっていうことになるよなぁと思う。普段なら抑圧してる自分の思想みたいなとこに、忠実になっているその言動のなかにいると、それ自体は苦みを持ち備えているものだから実際的にとてもつらくなって苦しいんだけど、筋が通って生きているような心地もある気がする。しかし同時にそれを咎めている自分もあるではないか!ということなのです。ようはまたそれによって回復していく自分ができあがる。
自分のこころでコントロールするのではない、生理現象としての月経によって私の思考はコントロールされるというか、誘導の一因、手助けがなされていると考えられる。ガードレールみたいな役割で、まああれは歩行者を守るためだと思うが、ここでは道路を走行するための補助、という意味の感じ。はじめのころは生理というものによって、思考も促されるなんて、まさかと思っていたのが、それが恒例化してくるとその疑いは確信にならざるをえない。ただ、決して生理によって思考が生みだされるわけではない。生理が源泉なのではない。生理という運動みたいなものが、それ以前までに生成し蓄えられ、ひとつどころに留まっていた思考という塊を、流れるよう促しだすということ。血液が流れるように、思考も同じように流れ始めるということ。まあ実際にはわるいものにつかれるのは生理前に起こって生理期間にはさめざめとした気持ちになるんだけど、そのはじまりを引き出すという点で血の流れが目に見えて感じられてくる。
生理も思考も止められない事で、手を使って泥でせきとめられるようなものではなく、手の出しようがない感じがある。でまあとりあえず最近はそれを認識したということ。おわり。
こんなにも苦しいのならしんでしまいたいと考えるのは、いったいなんなのかと思う。その苦しさの実体となにでしょうか。ちょっと自分で口にだしておきながら、というか口に声に音にしてみて初めてなかなか意味が分からないものに出会うということがよくあるものと思う。