そうかそういえばもしかしたら父は私がくるったかんじの行動に出るところを見たことはなかったかもしれない。低い程度のものなら少し前にあった。でもなんか、基本的に父からしたら私のそうゆうのは幼い子供のするわがままのような行為にとれたかもしれない。こどもを叱る、躾ける、そうゆう態度のように私にはとれた。そうでなければあんなふうに押さえつけられることはなかったんじゃないかと考えてしまう。うしろから首をしめあげられるような体勢になったことで私のぱにっく感はなんかものすごい勢いで増してしまった。ずぞおおおおおおと、背中から感ずるは大きな山々が群れとなって動き出すよな気配、のようなもの。とてもおそろしかった。私は必死にそれを逃れ(どんな形相をしていたんだろう)、洗面所の隅に四足で逃げ込んで猫のトイレ用にひいてあったマットレスを頭からかぶった。またそこに同席しながら助けてくれなかった姉に対してもおそろしい感じがする。私はあの時本当に気が高ぶっていたと思うから、いろんなことが自分の中でブチブチと切れてずれていったと思う。なので、私に対して垂直に向かってくる彼らに対して私は激しい動揺を催した。彼らにはわたしはただのいみふめいなのだと思う。まあそりゃあわからない、私は語る訳でもないのだから。

ああ最近またあぶないな、あぶない気持ち、かんじ、ぐあい、わるいかんじが胸んなかをうずめきはじめてるなと感じていた。いつもそうなってくると、抑えるよう努力をしなくっちゃと考える。おちつけーおちつけーゆぶににでもはいったらおちつくさ、思考をかえろー、すべてをうけいれろー、じぶんのかんがえかたはまちがってるーと、思ってみている。はいしかしやはりうまいこと洗脳できず。それでどうにかこうにかで気をなだめてやっていても、たったの些細なひとことで、私は一気に加速するらしい。加速して衝突します。もう取り返しがつかない。

感覚として、何かを感じている自分と、それを、感じたものを感じる自分とには、境界があるかんじがする。自分というものがひとつという感じがなく、切断があるかんじがして、そうすると、一切まったく自分というものがない感じがする。考えると、ただからっぽな感が生じている。わからない、以前それは満たされていたのかどうかも。ただすごくブツっと切れてる感じが強く、思考するものそのもの自体がまずないような。これが私、という感覚が、いくら手と手を重ね合わせて感じるものがあったとしても、私という感覚は失せている。いったい何なのか分からない。

今まで決して口に出さなかった、こころの中にあるいは文字にしか出さなかった言葉が、口から音としてあふれだした。延々と早口で繰り返された。そうなっている自分がこわかった。永遠にずっとこうなんじゃないかと思える自分がこわかった。永遠に許してもらえないことがこわかった。殺されるんじゃないかと、それをイメージできることがこわかった。これだからこの家はと言われることがこわかった。自分によって家が壊れていく感じがとてもこわかった。