毎日ひれはらほろひれとざあざあ泣いていると、ただでさえ薄よわい瞼の皮フが、その一部分だけが他の数倍の速さで老化していっているような感じになっていく。しわしわーな、よわよわーな、はれぼったさや赤みがひかない。ひく前に次がまた到来するのですね。一度泣きのスイッチが入ると、すべてが絶望的になる。絶望的な思考が世界を覆って、ほんとうのほんとうに真っ暗闇に包まれる心地を感じる。この世の終わりを感じる。この世というのはただ自分自身のことにすぎないのに、自分自身の終わりはつまり生きている本人にとって世界の終わりになるらしい。生きている自らの身体や精神があると、つまり世界とは自分なのだろか。自分が終われば世界も終わるのだから。その本人にとって。結局のところそんな風に捉えているのかな。

ぷつっと問いかけに応えるものがなくなった。問いかけをする自分と、答える自分とは別にあって、答える自分がまったく反応をしない。それはいなくなったか、なくなったか、とりあえずそこと繋がらない。答えるこころの声が、まったく聞こえない。わたしはだれなんだろうと思うと、そこにはしーんとした無機質な白の音のない空間が広がっている。なんにもそこいはない。ただ問いかけの音のひびきの名残がどこかへうっすら消えていく。自分というものに実感がなく、自分が人間かどうかも疑わしく、人間というものの概念というほどでもないただ捉えていた感覚を全て殻としておとしたのか、はぎとったのか、ただもう私は手放したかのような感覚。そう、あったものがなくなったというよな、喪失の感覚だけは残された。

なかなかいっぺんには書きだせない。あたまが軽いのに重い。本も全然読めなくなった。読む気力をすぐにつぶしてしまう。漱石の「草枕」のあのよみにくさのせいかどうか。いろんなことが、ばたばたと、ドミノのようになしくずれていく。以前までしていたしようとしていたことが、一気にすべて意味をなくして消えていく。とてもむなしくなる。




先週の水曜日、病院に行く前に「落下の王国」を見に行った。銀座、渋谷での上映を見逃し続け、新宿武蔵野館にてようやくたどりつく。これはこれは、ずっと気にかけていたかいがあったなあ。力強い物語、そう思う。すごくこころに残った「ぐるりのこと」も、力強いというとこでは同じで、それはすべてをのりこえられるような、そう思わされるような力強さで、なぜかそれらには涙が出る。涙が出る過程として、ぐっとくる、とても痛みや苦しみが伝わってくる、感じてしまう、しかしそれは弱さでなくて、どくんどくんと生きている心地を与えられるもの。そうゆうものにはあらがいようがない、というものとしてなぜかしらんが涙は出てくるんじゃなかろうか。

雄大な壮大なしりもちをついてしまいそうなほどの光景。景色も、建造物も、ほんものかどうかうたぐってしまうほどびっくりする。この世界にこんなものがほんとうに存在するのか、存在するならばそれは何者かによってつくりあげられたということ、それに対する驚きは輪をかけていくように何度も思った。しかしどれだけ大きな世界であろうとも、それはやはり小さな小さな物語なんだ。そのことがすごくあたたかくてやわらかくて、だからこそ純粋にとてもとても悲しい気持ちになってその物語にひきこまれていく。

後半の下りには涙がうるんできた。私は映画とかで泣くとかあまり好きじゃないのでしない方だと思うんだけど、自分の体調も作用したかもしれないにしても、めずらしい。小さな女の子に自分が自殺したいがために、そのためのモルヒネを取ってこさせようとするがために即興の作り話を聞かせていく青年ロイ。その物語をルイは無理やりかのように終わらせる。終わらせようとしてるんだ、とその物語の進展を見ていく中できづいたとき、物語の中の登場人物たちがどんどん姿を消していくのを見たとき、ほんとうにとても悲しくなった。登場人物たちが次々に命を落としていくことも、ロイが物語を終わらせようとしていることも、とても悲しく、けれどその背景にある少女とロイとの力強さがとてもひびいてくる。ロイが聞かせる物語は荒唐無稽で粗さがあるけれど、ひとつひとつが映像としてとても力強いし、そこにロイとアレクサンドリアの想いとかが介入してきていることを感じ見ていくと、物語を物語ることのひっぱりこむ力みたいなのを感じるし、見ている私も完全にひきこまれていた。

決して美少女ではないアレクサンドリアという5歳くらいの女の子。顔がぷっくらして少し日焼けしたような。オレンジの木から落ちて片腕を怪我して入院している。ここの病院がまずステキ!と思った。壁の色が半分で違うのがすごくいい。アレクサンドリアも片腕を怪我して包帯ぐるぐる巻きにしてるからって、カーディガンの襟口から肩をだして着てるぶかっこうでかわいいところもすごくいい。特に感動したのはアレクサンドリアがベッドの上で、片目ずつつぶっては見え方が異なるということを一人で試み楽しんでいるシーンを映像で作りだしているところ。とか、ロイとのベッドで物語をねだるシーンなどはすごくよかった。子どもと大人の会話というのがまっとうにあらわれているようだった。アレクサンドリアは英語が得意でないということからロイから何度も同じ質問が繰り返されたり、Eを3と間違うことから起こる珍事や、アレクサンドリアは物語のためにはなにがなんでも嘘を貫こうと問い詰められても素知らぬ顔をしてるのとか、鮮やかな世界各地の情景とは違った、薬品のにおいがしてきそうな病院でのシーンはどれも欠かせないものだった。薄いカーテン、コーヒー、氷、3錠の瓶、医者、ナース、ぜんぶよかった。

衣裳がこれまたどれもすごくって、うひゃーすてきーと見てる最中に、あ、そういえばたしか衣裳が石岡瑛子だったかもと気づいた。はなぢだしてぶったおれそうなほどくらくらしそうな衣装、とまた背景、建造物。すごく迫力。特に、ダーウィン、エヴリン姫、牧師の衣装とかすごくときめく感じ。ダーウィンの毛皮は蛾の羽なのかな。赤毛にくらくらした。

また、後半にアニメーションが効果的につかわれていて、クエイ兄弟みたいだーと思った。クエイ兄弟の作品世界に近いかんじのものだなーと。そうしたら、監督ははじめクエイ兄弟に頼もうと思ったがやめてローウェンシュタイン兄弟に依頼したんだとか。調べたら、まえにこのひとたちの作品はyoutubeで見てた。この映像の連なりもすごくよかった。なんか胃腸をやぶ医者のせいで無理やりにはらのなかに戻されたような感じの感じ。

すごくぜんぶ隅々まで好きすぎて話がまとまらない。パンフレットを買おうとしたらマスコミ用とかいうのしかなくて、しかも大きいサイズ。A3くらい?しかし静止画としても堪能するにはちょうどいい。どうやらA4のものも存在しており、そっちのほうが正規なのかもしれない。

おもしろい映画だったなーという感想が強い。映像としてすごくおもしろい。映像でこんなことができるんだなー、こんなふうになるんだなー、こんな世界が作れるんだなーということを知ると嬉しくなる。映像のみなぎるところを感じられた。新宿武蔵野館のちっちゃいスクリーンながら、ぐるっとこの世界にまぎれこんだようだった。