滞る、はびこる、燻る、どれにも不安ということばが似合ってしまう風に見えてしまう。不安というものの種類の多さにはびっくりする。不安になる内容の違いということではなくて、不安という目に見えぬもやもやというものの、強弱とか、厚さとか、温度とか、ゆらぎの具合とか、長さとか固さとか、まあつまり自分の体内に感じられる不安の種類とは微細に道がいくつも枝分かれして伸びているものだなぁと思う。枝別れの大元はというと、うーん、誕生そのものとか。
よもや不安を感じるのではなく、不安というものが私をなにに対してもびくびくさせている、というよなことを感じる状況にある。ん、おなじことかも。いやちがう。一応段階が違う。ストレートなのもこわいし、階層が増すのもこわい。となれば一番いいかんじなのはいいかんじにスルーできるときなのだろう。たぶん全部どうでもいい。
日記を書こう書こうと思うのに、書けれない。今書いてるのはぜんぶどうでもいいような書かなくていいことで、本当のところはなんか不安というやつの操りにより私はとても細々と落ち着きがなく、いかにもな小心者になった気分にある。表裏一体とはやはりたいがいそうゆうものなのかも。なんだかだめだめな日記。
復帰したはずの読書欲もまた減退、いつのまにまに。でも今年は本を沢山買ったな、今までに比べたら。年内までに新潮文庫漱石を読み切ろうと思っていたけどあと4冊はある気がして無理な気がする。順番はばらばらで、今は「吾輩は猫である」を読んでおり、これが最初は鋭すぎる猫におののいていたが、だんだん猫に親しみを覚えてくる。でもくどい説明がつかれる。漱石に関する本もちょいと読んだり。しかし多く読めないくせに2.3冊並行して読んでしまう癖がある。
鼻水も延々出ているととても透明な粘液となってこれがなかなかけっこうきれいなもんだ。まあ出す元はたぶん涙と同じとこになってるんだろうし、透明な粘液は日常生活ではほかになかなか出会わないので思わず目がとまるほどの純粋感。もはや鼻水ではない。
しかし昨日の日記のリンク元がすこしだけすごいことになっている。いつもではない。空中キャンプさんの人気がうかがえます。