液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

2016/11/2
syrup16g@下北沢CLUB Queを見た。ぴあの抽選のみでの販売、しかもクレジットカード払いの一人一枚申し込みのみ、当日は本人確認書類を用意とのこと。まあちょっと今のシロップは異様に手厚い待遇をうけてる感じがしないでもないわけだけど、なぜかいつも先行で外れまくっているぴあで当選したのだった。Queでやったワンマンっていったらクーデターのレコ発のとき以来だ。14年も前だなんて、遠いのか近いのか、当時の私が16歳だったことを思うとそれなりにみしりと重いものを感じる。そのころにしたら14年前なんて記憶にないころのことだ。自分が14年前というのを想起し抱えられるような年齢になって生きているなんてなあ、今は完全に想像しえなかったところを生きているとしか思えないが。まあそれも更新されていくのかな。

2017/1/13
狂う人を読んでいる。去年この本の書評を新聞で読んだときこれはきっとおもしろいんだろう、こうゆうものはおもしろいんだ、と思った自分がいたはずだ。こうゆうもの、男と女の、夫と妻の、でもそれの根拠って?以前にそうゆうものを見知っていると?というのはうっすらあったがはっきりしていなかった。でも3分の1ほど読み進んだところでたまたま自分の日記を読み返していたら古屋誠一の写真を見にいったことが書いてあり、ああそうだそうだと思い出せた。文学の世界では夫婦に関する話はよくあるかもしれない。夏目漱石坂口安吾、私はそれくらいしか知らないにしても。写真ではアラーキーが有名だしアラーキーも好きだけど私には古屋誠一と島尾敏雄にこうゆうのという近しいにおいを見つけずにいられなかっただろうと思う。残酷だとか評することは単純なのはわかっていてもでもやっぱり残酷で、でもそれを見たいし読みたいし
残酷だと思う。その状況は。

2016/12/22
syrup16g tour HAIKAI@ZEEP TOKYO 2days
シロップの今ツアーが発表されたのは9月ころだったか。そのあとにアルバムdarcの発売もアナウンス。まあそもそも順番通りにツアーを決めててそのあとでスタジオで曲をやってみたらできたという、まあシロップらしい話だなあ。ツアーは年に一度はやろうかなということなのか。しかし雑誌での五十嵐さんのインタビューを読むと少し不安になるような気持ちと、そうかと納得するような気持ちと。JAPANとMUSICAはインタビューとしてはぜんぜん好きじゃないけど、それでもそこでこそ得られる出てくる発言もあった。まあこの2誌においてはインタビュアーが自分の意見持ち出して来すぎというか、特に鹿野さんはやっぱ苦手で自分の意見を押し付けすぎ感、兵庫さんはジャパン節がききすぎていて見方としての決めつけや押し付けを感じてしまう。それに答える五十嵐さんは求められてるものを答えてあげてるような感じに読めてしまう。それもそれでおもしろいが。そのなかでおもしろかったのは、五十嵐さんが自分でほんとにいいのかな?と思ってるとかなんとかという発言。ああ、だからいつもMCであんな後ろ向きな発言するんだなとよくわかった気がした。よくわかったというか、そうかそうゆうことなんだなあと。五十嵐さんはこんなにも認める人がいて求める人がいてもそれでもぜんぜん満足できないというか、足りないというのか、それでも本当に安心することはできないんだということがはっきりと示されている気がした。ガチだなと思った。そんな五十嵐さんだから信用できてしまう気になる。そんな五十嵐さんの話が本当かどうかなんてそもそもわからないはずなのにな。だまれてるんじゃないのと思ってもおかしくないけど、いや私そこすんなり信用しちゃうもんなあ。

2016/12/12
山本精一 & THE PLAYGROUND (須藤俊明+道下慎介) 2016/12/07@吉祥寺Star Pine's Cafe

山本精一&THE PLAYGROUND@スターパインズカフェを見た。ドラムがペンペンズの道下さんでどんな感じかなと思っていたらスリーピースのそりたつような押し出し滑りこみでぐるぐるぐるぐる、終わらない無限ジェットコースターのようですごくぐったりきている。サイケのせいか…

今回なんで達久さんじゃないかっていったらマームの公演があるからかなーと。例えば達久さんでやるラプソディアが好きだけど今日はやらず、道下さんだからこその選曲でもあったのかな。おもしろい。大阪と京都ではまたドラムは違う人?そしたらまたどんな。POWDER聞けてうれしいーうひゃー

スターパインズで聞く山本さんは贅沢感もりもりだし、照明で山本さんがみごとにかっこよく映えていて、いろいろ自分が消えていく

やっぱり羅針盤の曲は聞いててすごく楽しいなーと思う。曲が楽しいのだと思う。羅針盤曲聞いてると、自分がすっごくちっぽけな一粒であるなーってことが感じられて曲がマクロ的存在で覆ってくれる感じがある。それがすごくポップソング。羅針盤にしかない曲だなあ、すごいなあと思う


1曲目のmothlightで15分くらいやったのも初っぱなからぐるぐるしててこれは今日はどうなると思ったけどアンコールのPOWDERも20分以上やったかな。ミニマルに誘いこまれるとこのままどこにいくのか、どこへでもどこまででもの心地になって意識がどんどんうわずって層化する

ヒコーキ(カバー)やますらのときに鳴らしてた音がよかった。ちょっと鍵盤で出してるような音色になって、シンセではないんだけど天井高い空間の上の方で鳴ってるオルガンの音みたいな響きで、あれは新しい音の広がりの感じがした

山本さんの曲や歌にある独特のゆらぎは魔物のようで、須藤さんはそれにすーっとなめらかに吸着するようにくっついていくところがすごい。達久さんや千住さんもくいっとすくえるんだろう。なので初めて一緒にやるという道下さんはそのへんが大変そうでありながら非常によく山本さんを見ていらした
Mothlight
サナギ
ロボット
ヒコーキ
ますら
冥府の鳥

めざめのバラッド
カラーズ
ゆうれい
ソングライン
en1
POWDER
en2
夢の半周

2016/12/12
12月9日キセル@さくらホール

窓に地球
方舟
くちなしの丘 ここまで兄アコギ

ピクニック
teach your children
絵の中で
町医者

ミナスの夢
君を見た

わかってただろ
山を下る
うしろからくる
きてけつかるべき世界インスト

君の犬
エノラゲイ
ひとりぼっちの人工衛星 この三曲ふたりだけで

時をはなれて
新曲
ギンヤンマ
きてけつかるべき世界

アンコール
君を待つ間
近未来

2016/10/14
6月からぜんぜんぜんぜんライブ感想日記を書かずに来てしまい、今年は12ヶ月連続記録を残していこうと思っていた意思はどこへやら。簡単におろされる。まあいいか、となってしまうと、もう総くずれ。でもなんだかまたやろうかという気にもなってきたので、やりたい。

2016/4/18
漣さんもおおはたさんもハンバートハンバートも見るのは初めてだった。しかし、みなみなさん、とてもとてもすばらしくって、演奏も歌声も息をのんだまますうっと吸いこまれて聞きいってしまう、こころがつかまれて、ぽおっと恋するみたいに聞きいってしまうようなそんなん。わあーっという小さな驚きがあったかと思うと、もう次の瞬間からは私はただちょこんと座って歌う人たちに見とれている。それはやっぱそのときそのときだけ恋しているようなもんなんだろうなあと思う。むかし、好きだ、という映画で撮影中に宮崎あおいちゃんが瑛太にほんとうにドキドキして恋をしていような状態だったみたいな話があった気がするけどなんかでもそうゆうのも遠くない話というか、その話好きでだから覚えているんだけど。

はじまりから数曲、7曲とかやったかな、漣さんが一人で歌う。ギターは三本あって、ほんとうにどれもきれいな音がなるもんだ。そして声は渡さんに似ているのかなと思う。私はこの会場の中でもぜんぜん渡さんのことを知らない人間だけど、それでも、死んだ父親の歌を息子がうたう、という場面に自分がいること、遭遇していることはなにか特別のことのように思えた。お客さんは私と同じくらいの20代か30代かみたいな人もちらほらはいるけど多くはもうちょっと上の40〜60代くらいの人たちで、きっと渡さんを見てきた人たちなんだろうなあと思うと、またその人たちには違う思いが各々わき起こっているものなんだろうなあと思い、それはどんなものなのかなあと想像したくなる。
そして最初のゲストはおおはたさん。オルケスタリブレとやっているのは知っていたものの結局ぜんぜん見に行っておらず。漣さんとは2人で一緒に渡さんの曲をたくさんライブでやっているらしい。やわらかーな歌声とギターだけど、メリハリがあってうねりがあって。2人のギターの息のあう重なりが軽やかできらきらしていて、音楽しているのがとても楽しそうだと思う。
2曲やったあと、また漣さんが一人にもどる。漣さんはトークとそこから続く曲へのつなぎがうまくって、でもぜんぜんそれも作意がなく自然体のようにやっているのでするするするする曲が歌が流れていく。心地よすぎちゃう贅沢じゃなかろうか。なかには赤城乳業の話もあり、なんでも渡さんの値上げという曲をCMで使いたいという話があった当初は断っていたのだという。でも丁寧な手紙があり、じゃあ作詞の有馬敲さんに判断してもらおうということにしたら、有馬さんが乗り気でオッケーをだしたということになったんだとか。まさかこんなことがあるなんて、という風に笑う漣さんは楽しそうだったな。それから値上げを歌ったんだったと思う。
そして次のゲストはキセル。1月のワンマン以来、3ヶ月ぶりに見る。もうキセルの歌が聞きたくてしょうがなかったんだけど。兄は漣さんからたけちゃんと呼ばれていた。なんかふだんの自分たちのライブのときより兄はずいぶんラフなかんじだなーと思った。ふたりとも舞台袖からでてきてすぐのとこでそれぞれおじぎをちょこん、ちょこんとしているあたりはいつもながらなんだけど。弟はあんま変わらないけどどことなく違う気もしたり。
一曲目には夕焼け。こここれは、作詞が吉野弘

2016/2/13
今月の5日はdownyのワンマンを恵比寿クレアートで見た。できれば前の方で見てみたいと、前じゃなくてもいいけどステージが高くないとこでやることが多いからどうしてもみんなよく見えなくてどうやって音出してるんかを少しでも近くで見えたいという思いがあったんだけど、なんとか今回はロビンさんがよく見えるところで見れた。裕さんはいつも全然見えない、かなり見るのがむずかしい、相当いい位置とらないと見えないんじゃないか、座ってるわけだし。秋山さんまっちょさんはまあまあ見えた。お陰でようやく生で見た中ではステージ上がどんなもんなのかを把握できた気がする。小さいとこでやってくれるの、その空気感とか好きだけど、downyは男の人が前にも多いのとメンバー全体に重心が低い構成なのとで眼にするのは容易じゃないんだなあ。

とりあえずロビンさんのギターを間近で見れてうれしたのし。エレキギターを買ったばかりだもんで、その影響でまくりで改めてギタリスト見るのが楽しくてたまらなくなっちゃうという。ロビンさんはアルペジオをひたすら弾くことがよくあって、まあ音源の時点でこっちがロビンさん裕さんだろうと想像はしてるけど、それにしても生で見るとひたすらそれを正確に弾きたおいしているのですごい。そしてそんなん弾きながらあんな歌いづらそうな歌を歌っていることがすごい。裕さんもロビンさんもギタリストだけど、2人ともリズムが正確であることが本当にすごい。なんの曲だったか忘れたけど、裕さんが1人で弾くところなんかもまじすごいすごいと驚いたくらい、ギターのカッティングのリズムが正確に、正確かどうか私にわかるんかいって話だが遅くなりも早くなりもしない適切さがあると感じられた、ふつう走ってもおかしくないようなもの、ところなのに。改めてそのことをはっきりと感じた。距離の近さのせいがあるのかなんなのか。


2015/7/16
昨晩に腹痛、その感じが少し前にもあったし、もうその原因の心当たりありすぎで年を重ねてくるといろんな不調がどんどんどんどん表に出てくるというのが良くわかる。放出されてくる。若きころは考えすぎても頭痛も腹痛も眠れないこともなかった。そもそも風邪を簡単にぜんぜんひかないから体は多分頑丈なつくりなほうと思う。しかし最近は湿疹みたいな貧血ななにかが一年に一度はあるし、とりあえずイライラ考えこむともろに腹痛として出てきたりするし、肌の調子もなにかしらの影響をもろにうけてか露骨な不調の表出をしてくる。
一人で考えこむことはよくないだろうと思う、それはわかっててもそうせざるをえない状況になぜか自らぐるぐるはまりこんでいく、気づいたらもう誰かに話すなんて無理だと判断する状況になっている。時かなにかがどうせしょせん解決するだろうと頼る。考えるのをやめることとに頼る。好きなものにお金を使うことを考えることに頼る。まあそれらどれかが出来ればもう大したもんじゃないか、どうせとるにたらないどうでもいい自分の不満苛立妄想仮定気まぐれなことがらにすぎないんだから、考えるだけむだ。ということをわかっててもぐるりの引力が強いと気分も体ももっていかれてしまうから気をつけないといけない。

ライブの感想を書き記しておく感覚がすこしずつ戻ってきた手応えがある。去年はまだぜんぜんうまくいかないというか、言うならば勘がもどってこないような感じがしていた。今でもまだ昔できていたようなことができていない気がするところもあるけど、ライブで見聞きしインプットするところからアウトプットするまでの一連の流れの体勢みたいなものは戻ってきたかんじがする。それは自分の中の器官が使われているか否かという感じが明確にある感じがする。

2015/3/13
ROVO@横浜サムズアップのワンマンを見た。ついに横浜まで見に行った。平日に横浜は少しばかし遠いけど、がんばって見に行った。明日は山本さんが同じく横浜でソロでしかも羅針盤の曲を中心にって、ああみにいきたいが無理で残念だ。
そもそもは四年前にサムズアップでライブをするはずだったろぼ。その2011年は新しいことをやっていこうとしていた年だった、そしてまた今年は同じように新しいことをやっていこうと思っており、それでまたサムズアップでできたらとの思いで今日が決まったと勝井さん。サムズアップはスタンディングキャパで250だけど普段はテーブルに椅子席とのことだからわりとゆったりした作りで、下フロアとステージよりちょい高い上フロアがステージ正面を囲む感じのつくり。私は上フロアの芳垣さんよりにいたもんで、ひっさびさに勝井さんを間近で見たけど、相変わらず細いなー!腕ほそー。あんまミュージシャンで細いなって人も珍しい気がする。てかほんとろぼをこんな超間近で小さいハコで見るなんてはじめてだったかなー。UNITとかも遠くはないけどやはりリキッドふくめステージ高さががっちりあるそれなりの大きさのハコとは断然違う。ろぼをあんなに間近で、けして広くはないステージでまとまりあうろぼの全員を見れたことはすごいよかったなー。これやっ
ぱハコの規模、ステージの広さって、それで全然違うんだなあ。芳垣さん岡部さんだって今まで間近で見てきてるけど、やっぱろぼで見ることは違う。あらためて、ろぼというバンドは各メンバーの他の活動とは一線を画したものを見せてくれるバンドなんだって思った。いまさら?いまさらすぎる?しかしこれはこんだけ近くでなまなましく見なければ今更気づけなかったことかもしれない。
1.3.4曲目は新曲。1曲目は山本さん勝井さんがユニゾンでメロディを奏でる。この2人の動き方がけっこう面白い。広いステージではないから山本さんと勝井さんの距離が近くてそうゆうふうにみれることがまた新鮮でときめいた。3曲目の芳垣さんの終わり方がきれい。4曲目の始まりの芳垣さんのシンバルのふちをスティックを縦にして音を出す美しさがやばい。
芳垣さんのろぼのドラムはリズムマシン的な正確さ、繰り返す緻密さ、そこからの展開の多さ、変容さと安定、そして手数の多さによる華やかさ、といった点で他のバンドでは見れない芳垣さんの音を見聞きすることができるんだと思う。芳垣さんはどんな表情のある音もつくりだせるけど、ろぼではそうゆうのはむしろ排除されている傾向にあるように思う。そこが他のバンドで叩いているときと断然違うのではないか。
でも、ろぼの芳垣さん岡部さんが作り出すドラムの音はほんとうに美しくてねえ、それはオルケスタリブレでもヴィンセントアトミクスでもなくろぼであるときの2人の音の発揮がやはり私の一番最初なんだろうと思う。

2015/2/18
初台のICCで展示中の大友良英 音楽と美術のあいだを見に行ってみて思うことあれこれです。

この展示で発されていることってざっくり理解すると、音楽をやっている人たちが最近アートの領域によばれはじめてそこで発生してしまうあいだがらのものことについて、が多少はあると思うのだけど、でもそれって超個人的な「わたし」からすると、えーそんなの全然気にならないっていうか気にしないっていうかあいだでもなんでもないという愕然たる私の受け捉え方があるんだけどそれってどうなんだろうという自分でもよくわからない問いであり行き場のない話。

簡単に言えば私からすると大友さんのやっていることは音楽にしか見えない。
大友さんは17歳の頃から見てる。特にファンではない。
その時からギターをひき、指揮をとり、ノイズdjをする人だったからもう私のなかでは音楽をしている人としか思えない。
美術館で大友さんの作品が置いてあってもそれはやっぱり音楽として見ている。
それは私にとってはサウンドアートとかでなく、ただ音楽だ。

ここで私ならではなのかもしれないという壁にぶつかる。
私は10代のころよくライブを見に行った。
色んなライブハウスに行った。
その経験のあとに美術館とかに行きはじめる。
このふたつの行為自体は似ていると思う部分があって、要はそのライブや展示を見に行くためにはじめて行く土地、場所があり、知る場所がありそれらが増えれば増えるだけ自分のあらゆる経験値になり、土地の手がかりとなりアーカイヴのようなものになっていくということ。
新宿も渋谷も下北沢も、私はライブハウスに行くことで土地勘を掴んでいったし、恵比寿や六本木や銀座その他都内各所は美術館にいくことで土地を見知っていったという点でふたつは体で感じる感覚的には同一だと思っている。
六本木にいたっては両方がまじる。

だもんでアートと音楽はべつものだと思っているけど、似たようなもんだとも思っている。
それはあくまで私が常に観客であるからであり、ICCでの展示にはもちろん観客側からとしても考える機会が与えられていると思うんだけど、それでも私の観客としての立場からでは「あいだ」があるなんて考えもしないことだと思った。

私の身体の持ち運び的にはふたつは似ているもの。自分の身体をそこへもっていくものとして。だから同じ。美術館でみても、音楽は音楽、になってしまう。大友さんが美術館でやる展示はもちろん視覚的物理的要素の強いものだけど、でもそれってライブでもそうだよねって思っちゃう。

どうしても美術、アートには文脈というものを強く感じざるを得ない。音楽にもあるといえるかもしれないけどもっと自由でありえると思うしシビアでもあると思う。アートには文脈があり定義がありそれをふまえたり飛び越えたりするからおもしろかったりもするし窮屈でもあり傲慢だとも思う。そうじゃないものたちがあったとしても、美術館たちは基本的にそうゆう態度でいることが基本だと思う。まあそれだけ美術には歴史があって時代や社会との関わりが強い

ライブは受け身でいられるが展示は受け身ではいられない。
それでも大友さんや芳垣さんのやっている音楽は積極的に聞きにいかないといけないことも多い。そうゆう音楽はライブハウス以外でも演奏されることが可能と言う事になるのかもしれない。
山本精一さんは音楽をつくるときには絵が浮かび、絵を描くときには音楽が浮かぶ、でどころはぜんぶ一緒だみたいなことを言っていた。
山本さんは私にとってはやっぱり音楽の人で、だから絵描いても写真撮ってもなにやってもうまいなって解釈になっている。

あいだってなに?と思うけどたしかにあいだは存在してしまうものなんだろうとも想像する。

2014/4/14

鬼子母神の手創り市へ行った。昨日は仕事で途中から頭痛もしたりでつらくなったけれど、休日を有効に、有効になんて考え方がそもそも狂ってるのかもしれないけれど限りある時間を適正に正しく使わねばと思ってしまう生活をしている今にあたってとりあえずなるべく朝早いうちに行こうと思っていた。そんでパンやお菓子を買うんだと決めていた。
予定より遅れること一時間。まあ十時半、悪くないか。雑司ヶ谷のあたりは静かでのどかでいいなあと思うけどスーパーとかなさそうだし人通りもなさそうだから暮らすのはまたどうなんだろうと思いつつ。食品ブースを一通り見て、さて気になったお店をもう一度二度と見てまわる。ピンとこれだときたお店でパンを買い、ケーキを買う。予算の千円を飛び出す。それからぶらぶらしてわわわとピンとくるものを見つつ値段を考えてしまううちはそれはやはり違うんだろうかな。わわわわわとこれはこれはという発見にであってしまった。まあ手創り市はそう毎回くるわけじゃないしいつも買えるとはわからないわけで、そんな要素も絡むか絡まないかはもはや必要ないんだろうけれどこれはこれは出会ってしまいましたのレース編みのバレッタとブローチを購入。母の日にあげようかな。でも自分でもほしい。お店の人もなんだかいい人だったなあ。ああゆう感じの人にはあまりお目にかかったことがないような。年齢は私より上だろうにその年齢感みたいなものがあまりなくてナチュラルですんなりとしたかわいらしさのある方だったのが印象的。見ていてうっとりする作品たち。

それから歩いて東池袋の方へ行くことに。そして途中、雑司ヶ谷霊園に遭遇!ここがかあ!とぷち感動。いい風景の場所だった。野良猫もいた。猫の動きはおもしろいなあ。いいねえいいねえとにやりする。しかしあんなにほのぼのひらけた霊園なんだな。漱石もここにねむっているはずだがそれよりもここりで描かれていた場所だということが大きい。しかしKが先生を追ってきてだったか一緒にきたみたいな時だったかの描写にあった場所は今でもあるのかな?なんか上り道みたいな描写だった気がしたんだけどな。なんかここらへん都電の線路具合もよくって、ひそかにぐっときた。休日にしらないはじめての場所を歩くのはおもしろい。

なんだかんだでお金をたくさん使ってしまっている気がしてこの本を買いたいと思って本屋行って検索かけてその本を手にまでとってるのに急に気がひけてきてしまう、ということは往々にしてある。なにやってんだろ私。一人暮らしをはじめて二ヶ月。まだいまいちお金の使い方の道すじがたてられていないような。


昨日は新宿へ映画『アデル、ブルーは熱い色』を見に行った。物語自体は目新しいものじゃない。人が出会って恋に落ちて夢中になってささいなことから亀裂が入ってしまう、そして別れ。それが女性どうしであるから同級生や家族の目が邪魔をするし逆にそこに強さのような契りのようなものが生まれてもいるんだろうか。
三時間という時間をあまり意識せずにいれたのは自分でも驚くくらいに映画の主人公と同じ目線で映画に入り込むことができたからなのか。主人公の大きなきょろきょろする目、上へしたへとよく動く目の形が強く印象的だった。とまどいや諦めや意志ややわらかな喜びや、とにかく目が印象的なものがたりをする女優さんだなあ。
もう一人の主人公が恋する相手はもうやばいほどにかっこいい。顔の皮膚の薄さみたいなんがそそられるんだなあ。キュートすぎる。

2012/8/14
今週の金曜日22時よりNHK-FM初恋の嵐の特番が放送とのこと。

10年前、メジャーデビュー直前にしてヴォーカル・ギターの西山さんは突然亡くなられた。西山さんは25歳で、私は当時16になったころ。バンド名は知っていたから、ああこんな風に人は突然いなくなってしまうんだなぁと少なからず衝撃をうけた。

その数か月後にアルバムが発売されて、ようやくそれではじめて聞いた。西山さんのつくる切ないメロディセンスと歌声ののびやかさと歌詞の個人的でありながら普遍さをそなえたすべてのバランスにとてもおどろいた。言ってしまえば私の好みにどんぴしゃだった。

私は明確にうちだされるきれいなメロディラインがその当時大好きだった。Syrup16gの五十嵐さんがそのほぼすべてを担ってくれていて、西山さんのそれは五十嵐さんに次ぐなあと思った。でも西山さんのその音を生で聴くことはもうできない。ライブによく行きはじめていたころで、聴きたいと思えば聴けることが当然だった16の私にはなかなか大きくショックな事柄だった。

25歳になった去年のころ、ふとああ私は西山さんと同じ年になったんだなぁ、西山さんはこの年であんなすばらしい曲を作り歌っていたのかと思うと自分がなさけないような、そんなことどうでもいいような、とりあえず自分が年をとったことを感じた。あー西山さんが今も生きていたらいったいどんなうたを歌ってくれていたんだろうと思いはせた。聴きたいー。

スタンダードな曲のつくり、何より人なつこく切ない西山さんの歌声はいくら時間がたっても色あせないと思う。ネット上でみる声がそれを裏打ちしている。今回のNHK-FMの番組をつくられた方は、実は知り合いの方で、「ライブビート」という公開録音番組のディレクターをされており(今は違う)私は10代のころそれによく行っていたのが縁になったりなんだりで知り合った。その方はもうとんでもなく音楽に詳しくて、

2011/6/20

好きだとこころから思うあなたに、あなたのために何かをしてあげたいと思い、あなたと一緒に楽しい時間を過ごしたいと願い、あなたといられることの幸せをかみしめたいと思うのに、どうしてそれはいつも噛みあわないんだろう。ぜんぶ私の独りよがりだったのかな。私の思いはあなたには見えない、あなたの思いは私には届かない。あなたは私といることを描かないかのよう。

こころから好きと思う人からこころから傷つけられることが私はとてもつらいと思う。

そんな相手を傷つけるかもしれないこと、嫌な気持ちに悲しい気持ちにさせるかもしれないことを言うことの辛さがあなたにはわかるだろうか。痛みがわかるだろうか。

もう自分を抑えつけることには疲れてしまった。もうこれ以上はしたくない。あなたが見ようとするものと私が見てほしいものはまるで背中をつきあわせているかのよう。

言葉が通じない不自由さ。言葉の意味はわかる。音も聞きとれる。同じ言語をつかっている。それなのに、冷たくて、味気なくて、ひきされるような思いをする言葉として私に届くその凶暴さに私はぞっとする。言葉を重ねれば重ねるほど傷つける気がする。言葉があるのになにも伝えられない。あったって何も伝えられない。それがあなたと私だ。

2011/1/00
去年の終わりにメールをしてて、このメールというのははじめはちゃんと用件があってのものだったんだけど、そのうちその用件については済んで、同時にくだらない話とまじめな話とがまざって進んでいった。まず私がくだらない用件でメールつづけてるとこからしてびっくりだった。そんななか、向こうから元旦に初詣行こうと誘ってくれて、休み中どうにか何かで会えないかなーと思ってた私は自分から言わずなんか卑怯な人になった気が勝手にしつつも、誘いをうける。

それで一昨日午後から待ち合わせして、23時すぎに別れた。10時間近く一緒にいて、特別大きく何かが自分の中で変わったことはないように思う。一緒にいるのが楽しくて、緊張感も、気つかうようなことも少なくて、関係としては友達でもなんでもいいような感じがあって、手をつなぐことさえ自然のような、なにか意味があることにはあったと思うけど、希薄だったように思う。変わらないのは結局、はじめから思ってることが変わらないからかもしれない。

口をきくようになって三日目で、さっとわかりやすく感じられるものがあった、見えてしまうものがあった。その時に、なんか思ったんだよなぁ。私がこの人のこと愛してあげなくちゃいけないって。こんなふうな話聞いたことあるけど、おおこんなかんじなのかー?と生々しい。
相手は私よりほとんどのことに関してよくできる人で、人に対しても対応がよくきくし、自分の考えがあって、自分の弱さも受け入れてて、それでそうゆうのを他人も自分も認めてるし、私から見ても話聞くかぎり実際見るかぎりよくできた人間だなと思う。完璧はありえないし、稀に私は意見違うこともあるけど。
それでも、この人は私が愛してあげなきゃって思わされた。ぎゅーってだきしめてあげなきゃって思った。なんだそれは。
その人は私がこれまでひたすらもがいてうまくやりこなせてこなかったことを、真逆の方向へと押し広げ実行してきた人に見えた。私にできないことを、私からしたら飛躍的にやってのけてきた人に見える。使うエネルギーは同じだったかもしれない、でも決定的に違う。その頃の話をまるで当然の当たり前のことのように自信満々に話すので、自慢話のようなものを漂わすくせに、でもどうにもそれは痛みがあるものとして私に伝わってくる。本人はどう思ってるのか定かじゃない。不満をぶつけるようにではなく、今は幸せだからというようなことを最終的には口にしている。それでも私には声さえあげられないような痛さがじんじん入り込んできて、なぜこの人はこれで生きてこれたのかと不思議でしょうがなくなる。でもそれがこの人の生き方なのだとわかる。強がりとかの態度でもなく、ただ生き抜くための手段を、確実に、この人なりにしてきただけなんだと思う。そう感じられる。
向こうは私をどう見てるだろうか?たいしてわからない。何か見ているだろうか。ないかもしれない。どちらも正解な気がする。私はなく、透明な気さえする。悲観的なのではなく、なんかみょうにさっぱり感があるからかなぁ。好きになってもらうためにできることはもはやないようにも思うし。私のこと好きじゃなくても当然だよなーとかも思う。なんかそんなかんじなのだ。
それでもやっぱり思いの一方通行さを感じると、くぅーっと切なくなるんだなぁ。でもそれもしょうがないなぁって。だって今まで私こんなこと思ったことないし、これをどう扱うべきかよくわからない。これが何か形になるのかどうか、見えない。愛してあげなくちゃって感覚は一時的なもので、またすぐ忘れるかもしれないものとも思う。だから、流されたくないんだとも思う。こわさはやっぱりある。
と色々書いてきたけど、状況的に色々新鮮だったりで、学生の時の恋とはなんか違ってて、年もとったし、だから冷静さがあるのかなーと。まあ正直好きかどうのこうのより、やらなきゃいけないことが目の前に迫っててそっちへの方があくせくしてる、しなくちゃならない、というのがどーんと目の前にあるということ。ほんと、これの方が心配で心配で、できるかな、と、先もあまり見えずそのぶんどこか一気に決まり進んでいくことがあるんじゃないかと思うと心臓がついていけるか不安もあるし、うつつぬかしてる余裕があるかどうかというのもほんとのところ。
私のなかで何か変わっていくのかなあ。変わることを迫られもする今年今月だと思う。できるかぎり、奮闘する、考える、行動で示す、こころを強くもつ、とにかくそんなんでせいいっぱいやるしかないだろうと、ひとまず今思う。


今はもう完全にaさんのことで思考がうばわれてるよなーと思いつつ、エクセルできるようにしとかなきゃの焦り不安の気持ちもあり、とりあえず明日からの時間の有効活用のために帰りに本屋行ってエクセル本購入。ついにこんな日もきたか、というかんじ。そんで18時過ぎに仕事終わりのaさんと待ち合わせ。17時半ころのメールで会おうってことになって、急に決めたけど、でもお互いどっかで急じゃなかったんじゃないか、とも思う。まあどっちでもいいか。ドトール行ってお茶して、ふらふらっと意味なく歩いて20時に別れた。あー、やっぱ妙だな。なんでも言えるという点では学生のときのゼミのメンバーの感じと同じだけど、そこで虚勢張る必要もなく、対抗することもなく、むしろがぜん素直になんでも言えるよ見せれるよってとこが違う。なんなんだろうこの楽さは。だからあんまどきどきもなく、すきすきって感じでもなく、はっきりとしたふわーという感覚でいてる気がする。
思ってること感じたことそのまま伝えられるって、なんてすごいことなんだろうって思う。伝えられるって気持ちいいことなんだなあ。aさんとはそんなとこも楽しいし、安心する。こんな関係もあるんだなあ。ああ一週間長いな。私もがんばらなくちゃ。

携帯から
今日はまた色々とあった一日だった。まず面接行く人が多かった。aさんも行ったし、私も行った。それで二人ともOJT先決まって、aさんは明日から早速そっちへ出勤することに。私は日にちなどはまだ決まらないので、少なくとも今週はまだ研修。まだほとんどの人が未決定でいる。
正直、不安なとこもあった。他のとこから受けてる人もいるみたいで、OJTとは言え選ばれるかどうかわからなかった。面接の感じは一次も二次も悪くないとは思ったけど、どう映ってるか、どう評価されてるかはわからないから。こんなに予測のつかない面接もあるもんだなーと思った。まあ、だいじょぶかな、って思ってるとこもあったけど、だめかもしれないとも思ってた。自信はもてなかった。決まってほっとした。OJT中に切られたりはしないよう、がんばってくいついていきたいと思う。休日少ないし結構大変なほうの仕事と思うけど。いつもの研修場所に帰ってaさんとここで過ごすのも最後かーって感じつつ、でもすごく寂しいとかじゃないんだよなーって思う。毎日会えるのが当たり前だったとこはあるけど、それで離れても、安心感とかあるからかな、なんかふつう?そんで帰りに私とaさんと他四人で安くごはん。別れ際にaさんがみんなに私たちの関係を暴露する。でもまあ気づいてましたとかそんな感じ。年上の人たち(女子)にはすでにばれてて、むしろ報告したりもしてたし。そんな感じで解散、ばいばいする。
aさんが歩きながら、今すぐ婚姻届だしてもいいと思ってるって言って、私もそれにさらっと頷けるくらい(現実的にないけど)、二人の中では結婚のイメージを強く持っている。口聞いて三日目でお互いのことを意識したこと、し始めたこと、その時につきあうというよりこの人と結婚するのかなといったイメージを二人ともが持った。さすがにこれは聞いてびっくりした。とはいえ、他にも、昔からの知り合いのような気がすると感じてたとこや、メールがまるで自分としてるかのように感じること、普通なら特に用のないメールはしないのにできてしまうこと、あまりに気を遣わず隠さず楽だと感じること、すごくお互いのこころの動きがわかってしまう、見えてしまう、似てると感じることなど、同じ意識でいたことが幾つもあった。
元旦デートしても特別気持ちが変わったりはなく、この人のこと好きなんだろうなーって思いながらもあまりにも普通に接しられたり、つきあうってなってもなんも変わらないだろうなって思ったり、そんなとこもなぜかほんとに同じ意識でいた。
究極が、つきあうというより結婚をする人と互いにイメージしたということだった。私はこれを自分で感じてるって意識したとき、私ってへんなのかなぁ?とか、年とったせいかなぁ?とか考えた。だって、今までこんなこと、誰かと結婚したいなんて思ったことない。だから、当たり前に風が吹いたみたいにさらっと結婚って感覚が浮かんだんだけど、誰にも言えそうで言えないことだった。こんなことってあるんだなぁというのが感想。お互いがお互いをこんな人いるんだなぁと思ったとこが一番大きいんだろうけど、そっからこんなにも感じ方が同じだったなんて、びっくりだけど、やっぱりそうかーって納得もある。
私はaさんにはなんでも言えてしまう。今までなら絶対に隠してきた自分の弱みや汚い部分も、誰にも話せなかったことも、それで一人で苦しんできたことも、aさんには簡単になんの躊躇もなく伝えられてしまう。この人なら大丈夫って、あたりまえの原則のように感じてるかのよう。どんな話をしたってすんなり理解してくれるし、なぜか私もaさんのことがわかってしまう。全部言わなくたって、共有できてしまう。他の人からはあまり知られていない、見られていない面で、ってとこがやっぱりでかいかな。完全は無理だから絶対ズレは生じてるけど、それは補完できる範囲。そうゆうのがまた、すっごいふつーにできちゃうんだよなー。はじめからそうだった。
なんか突然私の口から結婚とか、やっぱへんというか、現実味ない話だし、現実的にまだ経済力もないのにおかしなこと言ってるとも思うんだけど、aさんと結婚したいなー、結婚するならaさんがいいなーって思っちゃってるんだよなあ。なんなんだこれは、って自分でも思うけど。ただこれは、私たちのなかではしっくりきてるけど、傍から見たらおかしいというか、急激すぎるものにも見えると思う。そこは二人ともわかってると思う。だから、時期がきたらしたいねってくらい。まーどんな変化もこれからありうるだろう中で安易な言い交わしだけど、厳密な必要はなく、する時はするんだろうなーって感じでいる。まぁまだわかんないとこ多すぎるからなんともいえない。
そんなかんじの一日。

携帯から
朝。研修は一応先週でおわりで今日からは説明会や面談など。はたしてどうなるのか、来週どうなってるかもわからん。ちゃらんぽらんだなあ。
日曜遊ぶ約束はむこうの風邪がひどくなってしまって延期になった。かわりに伊勢丹行ってぎりぎりキッドブルー買えたからそれはそれでよかったんだけど。かなりひどい症状になったらしく、まあ実家なので基本的なお世話はしてもらえることがわかってたからそのてんの心配はなかったけど、だいじょうぶかしらん…と私なりにざわざわした。金曜から危なさそうだなぁという感じはあったけど。まあそのぶんメールしたりでこれもこれでよかったと思う。そんでメールしてるとこの人ほんとかわいいなあと思わされる。男性をメールでかわいいと思うなんて今まで滅多にないような。メールの文章の雰囲気がうまいのだと思う。メールがしやすい、伝えやすいってことをすごく感じる。
なんなんでしょうわたしたち。まあなんでもいいや、な感覚。

携帯から
メールするのがこんなふうに楽しいなんてなーという感想。なんかでもすっごく自然にできてしまってるとこが不思議。自然ってとこがまず今までにないものの象徴のようだけど。最初からそうだったかんじ。他の人とメールするのは絶対まだ遠慮とか気遣いとかあるのに、aさん(仮)だけは一気にそうゆうのぶっとばしちゃってるような。こうゆうのが楽ってことなのかな。昨日も計四人で飲みに行って、二人でくだらんやりとりしてるときも楽だし、四人で話し合ってる時もその感じは変わらないし、たぶん私とaさんが二人で遊んだりしてるのは誰にもばれるような感じなくて、まあ傍から見てもどっちも特別な感情抱いてそうには見えないだろうなーと思うし、実際そうなんじゃないかなぁって思ったりする。だって、好きでどきどきする!とかじゃないんだもん。頼るとこもあるけど、心配してあげたくなるとこも沢山あって、やっぱそこなのかなー。すごくしっかりしてる人なのは確かなんだけど(故にてきとーさも持ち合わせてる)、その裏のとこがよく見えてしまうからかな。本人いわく甘えてるとこあるらしいけど、私はほとんど感じてない。だから愛してあげなくちゃなのかな。文脈繋がってないかな、読むと…。今は一緒にいれるのが当たり前だから、それが余計わかりにくくさせてるような。ま、それももう終わっちゃうわけで。どうするんだろ。私どう感じるかなー。 もうねむいのできょうはこのへんでおわり。明日遊ぶのだ。でもやることもやらないと。頭使わないと。でも会えるのはたのしい。


2010/11/8
今さらながらというのかなんなのか、キングクリムゾンの「クリムゾンキングの宮殿」を聴いた。今月新宿ピットインでアルタードステイツ3daysがあり、3日目の恒例再現企画がキングクリムゾンと先月行ったときもらったチラシに書いてあるのを見て、そういえば前に母が昔はキングクリムゾンとか聴いてたとかいうようなこと言ってたなと思って、まだレコードもってるの?と聴いたらもうないと言われた。ちっ、と思うも母がじゃあCD買おうって気になって、おば(母の妹)の家に行ったついでに下北へ行ってレコファンでおかいあげ、母が。

帰ってさっそく聴く。およ、想像してたのとちょっと違った。一曲目の21世紀の精神異常者はCMとかで使われてたのもあって聴いたことあるあるはあるし、全体として私がしてたイメージともあっている。でもそのあとの曲はく、くらい、という印象でおどろき。

私はほんと洋楽というか、外国音楽聴いてきてないからプログレというものへの印象も定かでないんだけど、それでもプログレの印象はもっとにぎやかというか、音が明快で緻密で入り組んでのが最初から最後まで維持されるような感じに思ってたから(このイメージはどっからきてるかと考えるとイエスとかアルタードステイツなんじゃないかと思うけどイエスは2枚くらいしか聴いてない、アルタードステイツは2か3回くらいしか見てない、まあひじょうに薄っぺらな印象なわけで)、この静けさ、かなしさや、どんよりした、まあそれこそイギリスっぽい曇天な感じがつづくのは、へえー!そうなのか!!と発見驚き理解へとすすむ。

しかし妙に感じたのは、なんかこれすっごく今っぽいというか、ここ近年私が聴いてる現在に生まれてる音楽とぜんぜん遠くないよなぁという感じ。なんていっていいのかよくわからないけど…。とにかく、この一枚がすばらしいってのは確かだと思う。完璧に一枚ができあがってる感がある。そんであまりにも私の好きな、そのものってかんじなのが、どーん、すとーん、って入ってきたのがまた妙で。つまり結局私からすると特別新しい音楽っていうふうにはなってなくて、もはやすでにみょうになじみがあるような感じがしてしまうところがあるんだなあ。単に経験してないけど雰囲気として知らない時代を知ったつもりでいるっていうような捉え方ともまた違う。はじめて聴く新しさは確実にあるんだけど(過去のものとして捉えてるが)、

2010/8/19
きのうのつけたし。そういえば誰にも話していなかった、というのは、なんか、なんとなく誰にでも話してたような気がしてたけど、いやちがう話していなかった、ということ。自分でも意外なほどそれは自分の中でしかまわっていなかったのだ。外に映写されていなかった。内向き映写。

ドラマでケイゾク2が放送されると知り、おお、ふくざつ。キャストはかわり、演出はおなじ。中学生だったとき、毎週妙などぎまぎ感をもって楽しみにしてたなあ。なんつうかすごくすきなかんじだ、というのを、まだおぼろげながらに感じ取った。まだこのころというのは、自分の好きな質感のものとか、ひかれるものとか、それがどうゆうものでどうゆうことか、とかいうことには気がつくということがなかったのだな。どう進むのかわからないはらはらさと、ひきつける独特のわらえる具合と、なんだかわからない、見えないなにかがあるよう感じ、といったところに惹かれたんだろうなあと思われる。改めて思いかえして、やはり、意味不明なもの、わからないもの、といったものの魅力は大きく、だいじなものだなあと思わされる。ドラマは後半にすすむにつれ、なんだかよくわからない要素がいろいろ出てきて、ほんとおわりのほうは、見てて意味がわからないというか、なにがなんなのかわからなくなった。たぶん色んな情報についていけなくなってたんだと思うけど。それでも、わけわからんくなってもその全体の色合いや登場人物たちのふるまいに、ただそのありようにもってかれてたんだなあ。どうゆうことだこれは?と感じながらも、わー・・・っとつかまれて青黒い画面を見てた記憶がとてもある。柴田がでかい手さげバッグから何かを取り出そうとして見つからなくてぽいぽいバックの中身をほおり出すんだけど、そこに生理ナプキンまでもがぽいっとでてきたような。それがすんごい笑えて覚えてるんだけど、でもなんか昔のこと過ぎてこれがほんとどうか自信がなくなってきたりする。

脚本家の北川悦吏子の作品にはよく駅のホームがでてくる。恋愛対象にさせる男女にレールはさんでのホームに対置させてうまい具合にホームを使ってると思う。JRではなく、

2010/5/28
今さらながら長野での教習所生活を写真とともにふりかえる。

1日目
新宿を朝8時半発のバスで出発し、長野へ向かう。高速はおりるとこの結構手前でおりていくつかバス停でとまっていくのだけど、途中、同じように合宿で教習所をしているとこがあって、そこで若い人が結構おりるもんだから、あれ?私おりるとこはここじゃないよね?と一瞬あせった。12時過ぎにK市のバス停に到着。おりたのは私含めて3人で、待ってた教習所のマイクロバスに乗り込むと、違う方面から来たっぽい人が2人すでに乗っていた。ごとごとゆられて教習所へ。よく晴れているんだけど、強すぎない陽射しがまどろんでいてぼんやりした空気だった。

教習所到着。ちょうど昼休み時間だったのもあって、新参者たちをじろじろと見る目におじけづくんでもないけど、なんだかどうしようもないきまりの悪さをやや味わう。これはきっとみんな味わうんじゃないかしら。荷物をひとまずおいて、早速視力検査したり写真撮ったり色々書いたり。この時点で他方面から来てる人とさらに合流。その後大阪・京都からのバスで来た人たちも更に合流して、この日に入校したのは10人くらい。その内、女子が4人だったのは後から考えると少ないのかも。全体では常に女子比率が高いのがここの特徴か?

13時40分から教室で入校式。待ってる間に関東圏の人たちと喋ってみたり。20歳の男の子に年齢をつげると(若い人はたいがい年齢聞いてくるもんだ)「いや、見えないっす」と言われる。やっぱ教習所は若い人がおおいので私の年齢だと十分上の方の年齢というかんじ。18歳の子とかばんばんいるけど、ちらっと原簿(みんな常にこれを持って授業を受ける。一番表に写真とあわせて個人情報)見えたら生年月日のはじめが数字ひとケタで一瞬どうゆうこと?!とあせるも、そうか、平成3年なのか…とロゼッタストーン大英博物館にある)よりすごいものを見た気分になった。しかしほとんどは年下と思ってしまうと、はじめて喋る誰とも丁寧語なしでいけたのでそこらへん遠慮なくて実はらくだったのかも。

入校式といっても座って色々な説明聞いてというだけなんだけど。そしてさっそく次の時間には技能教習。車に乗れというのである。合宿はどこでもそうなんだろうけど、たいてい皆知らなさそう。私も知らなかったのでびびる。頭痛がする…。さてここではじめてあたった先生がTさん。今後一番回数多くあたることになり、お世話になったと思う方。第一印象、大学のときデザイン学科で知り合った人にすんごく似てる!!見た目もそうだし(浅黒い感じ、細フレームめがね、ひょろっとしてる)、声と喋りの独特の雰囲気も似てるなあと思った。兄弟なんじゃないかと思ったくらい。

でもマスク外したら輪郭がそうでもなかった。そう、ここでは未だインフルエンザ対策としてマスク着用が求められていたのである。まだやってるの?と思ったが、まあ確かに車内という閉め切りの中だからなぁ。先生たちはみんなワクチン打ってるけどね、と先生の誰かが言っていた。だが結局、ちょうど1週間がすぎたころにどこかからお達しが出たわけでもないはずなのに、自然とマスクをみんながしなくなった。もうしなくていいらしいよ〜という声をふと聞いた。ちらほらしてない人々がいる。あれ?ていうか先生もしてないじゃん!っていう1日があって、その日を堺にマスクはほとんど消えた。私は最初のころからいつもマスクするの忘れがちで、ようやく身に着いてきたとおもったころだったから、なんだよお…と思いつつ、メガネがいつも曇っていきぐるしかったのでよかった。なんだったんだあれは。でも、マスクしてるのとしてないのとじゃ、ずいぶん人相がかわるというか、もつイメージもかわるもんだと思った。マスクしてるとこわいと思った先生はよりこわくなる。

2010/2/17

面接を受けに行ったところから聞いてた時期を過ぎても返事が来ず、心配というか不安になって疲れてもうどうでもいいわあ…となげやりになりつつ、問い合わせたところ(母がした、という)その後も面接がつづいてまだおわってない、今週中に必ず合否を発送するとのこと。ち…。年とるまでに行方を方向づけられるかと思ったのに。でもなんかまあ来ない理由がわかってやっとすっきり。私ははやいうちから心配と不安でそれがもろに精神面に出てしまうわけで、まあそれでもなんとかたてなおすも、何も手につかなくなってむかむかして、ほんとこうゆう自分は努力が足りなさ過ぎて改善していくようにしなくちゃと思うところで、まあそれでも毎日いくらかでも英語を勉強するのを忘れず、そして日に2.3度ポストを見に行き落胆し、そうだ最近図書館に行ってなかったんだ!と気付き借りてきたのはぶあついマン・レイの本。3.8cmくらい厚みがあった。ほんとは冷血が借りたかったけどなかったからそのかわりでっていうかんじだったんだけど、おもしろいおもしろい。マン・レイ自身による自分の過去のふりかえり。大人になってからの話ばかりだけど、それでもアメリカとパリを行き来するなかで土地でのマン・レイの選択していく生き方、それは戦争によってもたらされることでもあり、そのなかでありとあらゆるアーティストや沢山のお金持ち、関係を持つ美女たちが現れ、パリがナチに侵略されアメリカへ渡っていくくだりの話には緊張感がありながらも冷静にやりこなしていく姿にわくわくさせられ、どこへ行ってもなんだかんだでよくパーティに行く描写があるのがお酒をあまり飲めない私、時代も国も違う私には真面目なんだかどうだか不思議で面白い。

2010/1/12

なんか、はてなに写真アップすると画質が悪いような。気がするような。残念なような。
去年買ってこれは使いいいと思った手帳というかノートというか、カレンダータイプのスケジュールが1年と3カ月分ついていて、あとはぜんぶノートになっていて、後ろにポケットが数枚ついていて、手帳でありノートであることをスッキリ果たしているところが私にはとても使いやすい。去年たまたま1月に入ってからsmithという文具雑貨屋さんで割引で買ったにすぎなかったのだけど(色もみどりしかなかった)、これは次もこのタイプを使っていこうと思っていた。しかしたいがい出遅れな私なため、数日前に池袋店に行くもこのB5くらいのサイズのものがなく、店員さんに聞いたところこのサイズ・タイプは人気で早くに売り切れたとのこと。がひん。池袋のロフトには見当たらず、もうきっとないんだ…と沈みながらも大宮のsmithへ。しかしやはりなし。もう諦めるしかない、なにか適当なのをと思いつつもあんまお金はかけたくないし、シンプルなのがいいしと思うとなかなか見当たらず、ロフトへも足をのばしたところ、なななんとラスト3冊の黄緑色があった。一番身近にあったのか…。なにはともあれ嬉しい限り。鎌倉へ行ってさむざむ疲れた体もようやくあたたまってきた。
そう昨日は鎌倉にある神奈川県立美術館へ、内藤礼「動物はすべて、

2009/11/17

三匹おんなじ柄。


なんやねんあんた

うるうる

かあちゃんどこやーーーー

おっぱいバトルのはじまり

むごむごばこばこ

むねん…

下の方のおっぱいがすき

くろめ

にてる?

2009/10/9


母は昨日が誕生日で会社ででかい花束をもらってきた。ピンクのバラ。バラはつぼみから少し開いてくる頃が一番かわいらしい。すっかり開いてしまうとその主張のでかさになんとなく気がひける。
誕生日にとタルトタタンを作った。少し失敗をした。それでも冷蔵庫に入れておいた。けれど夕食ころになるとなんだかどれもいやになった。なので今朝の燃えるごみで捨てた。私はこうゆう気分のむらっけがすごくあると思う。気の変りようが激しい。それは小さなころからそうで、自分でもわかってるけど、そうゆうのをコントロールできていない。そうゆうところは誰にでもあって、でもそれは年を重ねるにつれて折り合いをつけさせていくものなんじゃないかと思う。けれど私はいまだに自分のわがままっぷりがそのまま生き生きとしている。自分の気分のむらっけには嫌気がさす。それがヒステリックになるとこに繋がる。怒りの気持ちの抑制がきかない。でもその怒りの中にはきっと色んなものがまざりあってるんだと思う。撹拌がうまくいってないのだな。


水曜日、まずはビックカメラに行ってフィルムをだして、時計売り場のとこで卒業式でもらってあったポール・スミスの腕時計のベルトの調整をしてもらうのに525円払った。金具を二つとってもらった。これでようやく腕につけてもまあそんなに不自由感がない。なんとなく今までずっとめんどうで放置してついには時計を壊した母にあげていた。今までずっとプラスチックのものしかつけたことのない私にはそれは重すぎた。でもなぜか突然ふっと気分がおとずれて使えるようにすることにした。電池がなくなるまで使う日は来ないのかもしれないとなんとなく思っていたのだが。

それから浦和のパルコのなかのシネコンに行って空気人形のチケットを買って、時間があまっていたので上の階に入っている図書館へはじめて行ってみた。でかい広いらしいということは知っていたが、ついパルコにきても図書館のことは忘れていたりする。しかし図書館はでかかった。本がありすぎる。市内でもいちばん大きいのかな。机や椅子の数、スペースもたっくさんあるし、ありとあらゆる雑誌があるし(最新号のくたびれ具合が私が普段行くとことまるでちがう)、あらゆる分野の本がみごとに揃えられている。私はわりあい心理や精神分析とかいうあたりに分類されてる本の棚を見て歩くのが好きなわけだが、うひゃあああ読んでみたいと思っていた本があれやこれやと並んでいるではないか。うわー。芸術関係の本も私がいつも行くとこに比べたらじゅうぶんにあった。これじゃいくら借りても読んでみたい本があふれてやまないんだろうなあ。私の行ってるとこでさえいつもあれもこれもと悩むというのに。圧倒されてつかれる。

そして映画「空気人形」を見る。これはなんだか久しぶりに味わいがいのある日本映画を見たというような、じ、じ、じ…(このことをもうちょっとうまく言いたいのだが言えない…)とくる映画だった。ぜんぜん言葉にならない思いが見てる間も見終えた後も自分の中でぐるぐるしている。まあ単純に言える一側面としては、カメラの切り取る画がすごくきれい。冬のすんだような空気感がとびきりいい。それは空気人形の体温のないつめたさのようでもあり、その空気の中に生きる空気人形の姿や言動がよりすっきりとしなやかに映っているようでもあった。また特に空気人形が自ら動き始めるところはとてもよかった。わ、きれいだ、とたたまれていた羽が開くような具合にその言葉と感覚がたちあがった。ひとつひとつのカットがなんだかきらきらしている。悲しいような残酷なような場面でさえ、どこが画面の隅のほうにはきらっとした粉末のようなものを感じるようなかんじ。


2009/7/13

銀座へ行きギャラリー小柳で鈴木理策「WHITE」、資生堂ギャラリーヘルシンキ・スクール展「風景とその内側」を見た。鈴木理策の方は北海道で撮影された作品。雪の様々な形の結晶の作品が数点並んでいて、こうゆうものも撮るのか、と意外というかなんというか。葉のついていない木にふりつもった雪の白の色がつぶれたかのような、なにがなんだかわからなくなるような、輪郭や距離が曖昧にあやふやになるような、光の光線そのものの刺激をいまそこで味わうかのような作品が一番強烈で印象的。照明あてないで見るとあの白の色はどう見えるのかなとか思ったり。とにかく白の写り具合みたいなとこにくらっときて、全体の一枚の成り立ちはもはやあんまり覚えていない。
鈴木理策の写真はこの人にしか撮れないこれらの写真なんだなという感を意識せずに感じているところがある。ただその土地を歩き、そこにいるだけではないという感じを受ける。ただそこに入りこみ、そこにあるものを切り取るんではないんだろうなと思う。なんともまだよく言葉でうまく言えないのだけれど、言おうとしてもどれも否定形での説明みたいな感じになる。ただ、この人のこの歩みでなければ、私がこうして感じられるものは存在しないように思う。その私が感じているものの詳細というのもうまくことばにならないのかどうか。なんだろうな、ふしぎだな。それがいいんだよな。

ヘルシンキ・スクール(ヘルシンキ派とも言うらしい)とはおおざっぱに言うとヘルシンキ芸術デザイン大学の教師、学生、卒業生で構成されるグループとのこと。そこにはもちろん大学独自のアプローチや思考を継承するという流れがあるのだけど、そうゆう構造をへえええおもしろいなあと思う。フィンランドを想像してそこにそうゆう人たちがいると思うからかもしれない。
今回の展示は女性4名の作品。特に気に入ったのはサンドラ・カンタネンの作品。水辺の葉の色がきれいだなあとか最初は思う。こうゆう湖の感じはヨーロッパな感じがしていいよなあとか。枝葉がぶれてるようなとこがあるなあとか思ってよく見てみると、それはぶれではなくて、上から大胆に塗られたような筆跡があった。それも一個所や一色ではなく、結構しっかりめに。気づいてうわーうわーと惹かれる。5点くらいあって、どれもよかった。画面に付け加えられた筆跡によって全体に動揺が生じているようなのに、でもとても安心感のようなものを感じてしまう。心地よさみたいなとこがある。ずっと見ていたいような感じで、まるでこの湖のうえでボートに乗ってささやかな波立ちにあるがままにされてる気分になる。この上から筆をひいたかのように見えるのは一体どうゆうことをしてるんだろうと疑問に思うのだが、ネガの段階での処理らしい。

2009/6/30

ロンドンのトラファルガー広場にいるネルソン提督。漱石の小日永品かなにかにも書かれてたような。きらりと。ネルソン提督については棒読み的な感じにしか知らないけれど、ああ漱石もこれをみあげたのかしらあああということを思った。漱石も見たのかなあとか思うと自然と百年前のここの風景はどんなだったかというとこまで想像させられる。建築物などは変わらずあるとしても、その周辺や人間の様子はいくらか違うだろうと思いつつ正確にわかるわけではない。しかしそれでも空は同じような類だっただろうか、とか考える。

2009/6/18

こないだ初めてIKEAに行った。車で連れてかれただけなので、県内なのはわかったけど一体そこがどの方面の場所だったのかはさっぱりわからなかった。高速に乗って30分くらいで着いた。私が絶好にうつうつモードに入っていたたため、無理やり家族総出で出かけるという儀式。とりあえず非常にでかくて目が疲れる。ご飯は結局高いような、そんなにはおいしくないような、それならモスバーガーがいいなという気がした。子供向けの商品にキュートなかんじのものが多く、色づかいとかがやっぱり北欧らしい感じで、むだに欲しいと思わされる。あとはテキスタイルもかわいいのがあった。家具類はべつにあんまり。レジに到達するまでの道をひたすら歩かねばならなくて、次から次へと商品がたちこめていて、人々もわらわらしてて、なんだか不思議な場所だった。


火曜日に久しぶりに病院へ行った。母に行け行けと言われ、お金かかるからいやだと言い、結局めんどうなので行く。1時間しか待たずに順番が来たので驚く。最近の状況をどうも双極性っぽいですの感じで話をしたところ、先生からもたぶん双極性障害だと思いますよと言われる。ああやっぱり断定はしないんだなーと思う。これは他のものがまざってることもよくあるらしいこともあり、判定が難しいらしい。私も自分で完全にそうかどうかはわからないものだろうと思うから、この言われの方がいいなと思う。
どうもここ一月半くらいよい感じの調子が続いていた。こんなに長いのは少なくとも今年に入って初めてだったので驚いた。なんていうか、それはまさしく、ふつう、という感じで体感するものだ。あ、ふつうだな最近、と思う。時にすべてに無意味さを感じても、深く陥らない、いつのまにかそのことを忘れていたりする。普通に喋るし、笑ったりもするしふざけることもできる。罪悪感も強くない。それでもずっといつかは下降することを繰り返しているから、これが永遠じゃないのは自分でもわかってる。
しかしここで今まで知らず気付かなかったこととして、このふつうの感じのときというのが、どうやら軽躁らしいということ。躁のように日常生活に支障をきたさない、自分も周りの人もそれが躁だなんてわからない、まさにちょっと調子が戻ってきた、ふつうに戻ってきたくらいに思っている。でもそこには躁としての特徴が見られる。私の場合まさにあてはまってる!と思ったのは、何か意味のある課題を達成したいという目標志向性が高まるという点。あわわわわ、おそろしくもまさにそうだわたし。でも結局それはうまくできなくて、その過程によりうつつへ返ることがよくあった。色んな物事に手を出そうとしたり、意欲みたいのがわいてきたりもする。また、良くなってきたと感じる、つまり躁になると、もう自分は大丈夫だから薬も必要ないと思い薬をやめてしまう、という例えがあり、うぎゃーそれまさに私だ、数日前にもカウンセリングもういらない、だいじょうぶと考えてキャンセルしたわーー。そして結局数日後に気分悪くなってるんだけど。
ううんん、というかただ漠然とこれまでを振り返ればひたすらずっとずーっとひどく落ち込む期間と回復した期間との繰り返しだったから、自分でもそれはわかってたけど、それでもいまいちピンときてなかったような。だってそんなこといったら私16か17の頃からそうだよ〜ってなはなしで、くりかえしすぎだろーって感じだけど、繰り返し、という言葉がたしかにぴったりくるかも、と思う今日このごろ。でも完全に繰り返し体質になったのはいつかあやしいかな。自分でもいつも不思議だった。どうしてひどい思考のことを忘れられている自分がいるのか。

2009/2/26
映画「ハルフウェイ」を見た。プロデュースに岩井俊二ということでずっと待ち遠しかった。実際にプロデュースの立場がどれだけのものかわからないんだが、「虹の女神」でも同じ立場でやはり岩井俊二っぽさを感じずにはいなかったのもあり(今作では編集にも名前がある)、また脚本・監督の北川悦吏子のドラマも見ていて物語が結構すきで、まあたぶん岩井俊二北川悦吏子が組めば相性いい感じになるんだろうなと思ってた。

チラシとかからして主演の北乃きい岡田将生がすんごくかわいいのでそこも期待したら予想を上回って映画の中では二人がそれぞれに、また二人のやりとりがまさにそのまんま生きてる高校生をみずみずしく演じていて、見ててもこれはどこまでが演出なんだろう?と思って不思議でしょうがなかった。そうしたら、ほとんどがアドリブで進んでいったとかいうからああそうなんだぁと納得するのと同時に、そんなことをできちゃうこの二人がよけいに役としていとおしくもなった。

物語には、世界の外枠の大きなショックさとか、重大さとか、差異とか、決定的な問題とか、痛みとかはないようなもので、長いかもしれない人生の中のほんのすこしのある時からある時までのささやかな途中を描いている。物語の途中、という時が、ほんとうにきらきらとしていて、自分は別に同じような体験をしたわけでもないし憧れたわけでもなく持っていない記憶なのになぜかそこにすぐに触れられて入ってしまえるところが岩井俊二だなあと思ってしまう。知らない風景でさえも、まるで自分の心象風景かのようになる。

2009/2/26

昨日のお昼頃から気分がとても悪くなってしまい、おちつけおちつけと自分をなだめて、なんとか自転車をぶっ飛ばしてできあがりのプリント写真を取りに行き、裾上げもたのんできた。自転車でぶっ飛ばせばすこしは気が晴れるんじゃないかって期待してたけど、それはやはりただの期待で内心はむりだろうなと思っていたのでやっぱりあんまそんなたいしたことはなかった。おもおもしくなった気持ちというのはそんなに融通のきくいいこちゃんじゃないのだ。
早めに夜ごはんの調理に取り掛かり、さっさと湯船につかることにする。しばらくはだれも帰ってこない。湯船で読書のお時間が最近は出来ない。なんとなく、のーっとしてるほうがらくになってしまったから。そんだら浴槽の中という固定された空間の中でじっとしていることができなくなってきて、落ち着きがなくなってきて、不安がつのってきて、いつからか常習となってしまったけいれんがはじまりだす。こころに得体の知れない不安がうずめきだすと起こるやつ。なにものかに、それこそ、おばけに追っかけられて襲われてるようなきもちになる。お風呂から出たころ母が帰ってきた。きぶんがわるい、と告げる。紅茶飲まされたり大きな深呼吸をされたりしてようやくおちつく。22にもなってなんて出来のいくないむすめなんだろう。そのあとnhkで「その時歴史が動いた」をわふわふと見た。へええ、へえええ、と思いながらこの番組を見るのが好きだ。
もうすぐ診察とカウンセがあるので日々あったことは書きとめておかなくちゃと思うんだけど、なんかできない。きもちわるい。自分でする認知療法ノートみたいのも吐き気がしちゃうからなあ。それだけ文字におこすというのはなんか怨念めいたものがひそんでいるやかもかも。
鼻水を治したい。
頭が混乱するという状態がある。それは私にとって、たとえば、ゾウという文字とゾウのイメージがむすびつかないということになる。そしてただゾウというひとつのことだけでなく、様々なものごとの点と点同士がつながらなくなり、全てがたちまち違う方向へ飛び出していき、何を優先順として考えていけばいいのか分からなくなり、私は今何を考えどうするべきなのかまったくわからなくなる。すなわち混乱。色んなものが色んな方向へいっぺんに逃げ惑っている。混乱はおそろしいでやんす。

2009/2/9
なんだか気力がすべってきているのでメモ。

・銀座のkoyanagiギャラリーに束芋を見に行ったら、メインの2007年のヴェネチアビエンナーレに出した映像作品(6分くらい)はコピー5枚中4枚が売却済みで、値段は735万円。ドローイング作品は9作品位はあったか、ほとんど売れてて35万くらい。大きい絵画的作品は75万くらい。現代アートの現在の値段をまのあたりにした。しかし作品は相変わらずよかった。それまで死んでいた頭の機能が生き返った感じがした。また、束芋本人による作品解説的な文章がすごくよかった。また、田名網敬一による文章も。

・その後ガーディアン・ガーデンで開催中の石川マサルさんの展示に行ったら、ご本人がいて、色々と話をしてくださった。イタリアの話とか。自分の中にはデザインというものとの関連性が薄いが、石川さんのデザインの仕事は見ててとてもおもしろかった。

資生堂ギャラリーは疲れたので行かず

・「そして、私たちは愛に帰る」という映画を見た。これは、新聞で飯沢耕太郎の記事を見てたから見に行ったものの、宣伝文句やポスターの感じだけしか知らなかったら見に行ってなかったかも。海外の作品は監督や俳優を全然知らない場合、どうしても提示されるイメージだけで判断しがちでそれはもったいないので注意しなくちゃいけないと思う。例えば「落下の王国」もポスターの印象は微妙だった(海外版のポスターだと良い)。それで作品は予想以上におもしろかった。見ている最中に、うわっ、という感じにみまわれる。トルコとドイツが舞台で、トルコという国についてあまり知識のなかった私にはトルコという国、宗教、町並み、顔、言葉、社会、どれもが新鮮であったし、場面や人間の生き死にがあっさりパッパッと描写されるが同時に一筋があってそれがまた新鮮。すれちがい、めぐりあい、一見ありがちな描写がありながらもくどさや、いやみ感を覚えない。物語がしっかりとある作品と思う。そこにとても惹かれた。

・「クローンは故郷をめざす」という映画も見た。明らかに万人受けしなさそうな映画。タルコフスキーの「惑星ソラリス」を思い出さざるをえない。似ているという作品。水、草、田園的風景と無機質な空間の対比の感じや、ひとつの人間が生き返ることや、とにかく静かで音がなくてつまらいとかじゃなくて自然と眠くなるところがまったく同じで「惑星ソラリス」すごく好きだけど2回見て2回とも眠ったことが思い返された。一瞬で判断のできない作品。つまり良くも悪くも。むずかしいな。良いか悪いかでいったら良かったんだけど。後味があいまいに残される作品のかんじ。

2008/12/30