液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


5.6年前から自分の中で2月には特に極めてわるいことが立て続けに起こるというジンクスがある。そう決めてかかってるからそう見えるのかもしれない。いつだってわるいことなんて起こっている。それでも私は2月はいたってよくない月と思わずにはいられない感があるので、2月に入ると今回はなにがあるだろうかとついつい思っている。

なので連続して悪い状態が起こってもすでにそれはもう慣れた。ただやっぱりその度合いが強いのでひとつひとつに驚く。はじめに2月に悪い事が起こったとき、どうして?と思った。誕生日の月にかぎって、なぜだろうと思った。年をとることに対する象徴のようなものかと思った。そして私は年をとるのがこわくなった。つぎつぎと迫る一日一日が、季節が、暗雲でしかなかった。私は自分がこわい。自分が生きているのがこわい。年をとるということは、自分の罪がより一層積み重なっているということを認めなければならない。罪が増えている事を目の当たりにする。増えているというような他人事ではなく、増やしているという自分には、ぜんぜん罰が足りていない。もっと大きな罰を受けねばならないと思うのに。それでいて結局のうのうと生きている自分という矛盾は、よりなぜ生きねばならないのかという疑問を沸かす。もうなにも要らないと私は言う。すべてを終わりにしたいと思う。死などではなく、それよりも、すべてをおわりにしたい。なくしたい。すべて、自分をなくしてしまい。私はずっと終りが来る日をまちわびている。なるべくはやく、その日が来る事を願っている。終りが来れば、すべてがおわる。現在生きている日々は、それまでのこと。それ以上でも以下でもない確固とした価値をもつすべて。お金の価値など私はなにもわかっていない。

カウンセリングにあわせてと思い、17歳の頃の手帳を開いたら、ああそうかこの頃から基本思想はきちんとできあがっていたのだなと知る。でも本当はそれよりもっと前の事を知りたい。それよりも前の自分を知りたい。どうしていつから私は自分を死ななければなならない人間と見なすようになったのか、それを信じて信じて母親にしがみつく子どものようにそれから離れられないのか。私は過去をどんどん忘れていくのだ。そんな自分が卑怯に思える。自分の犯してきた悪事を都合よく忘れていく。どんどん本当の事が消えてなくなっていくようで、そして結局何も解決せず何も変わらないようでいて、それが、とてもこわい。私は自分を許せない。自分を許すことができないというのが、私の内に絶対に崩すことのできないものとして太い大木のように脈々と根を張っていて、それはどんなことをも否定しうる力を持っていて、私の意識など到底およんでいない風に見える。

一体問題は私自身に関することなのか、家族・家に関することなのか、わからなくなってくる。カウンセリングで話をしているとどうも家のことに結局は傾いていっていて、それはすべて現在のことでもあり、過去からの現在でもあり、つまり問題は家なのだろうかとも思う。というか、切り離せない事象なのか。私は家がなければなく、家で私はありつづけてきたわけだから。家はどんどん壊れていく。そう思うと「トウキョウソナタ」がいつも蘇ってくる。しかしあの家には最終的に希望が現れた。それをとてもうらやましく思う。家が壊れていく音が私はこわい。耳をふさいでも全身からはいりこんでくる。私をむしばむかのように、全身がひめいをあげていく。細胞がブチブチと切れていくように感じる。家を壊しているのは私だ。ここでもまた思考と感情と、様々なものが矛盾を重ねて私の一つの身体のなかで息をしている。なんてきもちわるい。なんてきもちわるいんだろう生きているという事は。どうして生きなくちゃいけない。

様々な視点からにおけるすばらしい音楽や映画を見聞きしている間は、いやなこと気持ち悪いこと苦しいことを忘れさせてくれる。時にはそれ以上のものを考えさせられるパワーを与えられる。すばらしいアートは大抵そういうものを持っている。文学は常に自分に寄り添った形でしか実際には返ってこない、他者の介入を許さない個人体験の強さを感じられる点でとても優しい。それらに接することができる。自ら望む。それらでしか、私は自分を支えられないような、そうゆう心地がある。私はすべてを否定できるし、終わりにしたいと思っている。それでも現在という時空を通じてそれらと触れる事は、常にプラスマイナス0の位置を保ち続けている事を認識している。それらと私は無関係でもあると思う。それらはいくら私が私を終えたとしても、位置は変わらないでしょう。だから私はいまだ終わらない現在のなかでそれらに進んでいこうとするのではないか。だから、は無理やりつないだ感もあるけれど。