液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

ひさしぶり。書こう書こうと思ってもなにをどう書くものかよく分からなくなった。書き出しがないのでそのことをただ書くだけ。むなしい。むじゅん。これらの言葉は6割はつかめていてもあと4割はまだつかめてないような感じがする。しかし今の私はこれらの言葉をなんどもなんども叫んでる。これらが私の体のまわりをぐるぐるまわっている。

言葉はわりかしあふれている。自分が使う言葉も、文字になって沢山連なってるものも、他者が喋る言葉も、いくらでも言葉はころがってるわけだが、自分の内にあるものにある言葉がぴたりとハマる感動はそう滅多には現れない。大抵月日がかかって唯一的確な言葉が現れたりすることもあるという程度。すぐ目の前にあるポットをいつもどこへいったかと探してしまうのと同じだな。他に対していくらでも使っているようでいても、まさにその言葉とイコールとしての存在を表しえる可能性を秘めているものは見逃してしまっている。だから奇跡的なことが起こった時に私はようやく言葉の意味を知る。言葉というそのものを深々と実感する。

COPYというアルバムを聴いてこれはこの自分が感じているこれはいったい何なんだろうと3ヶ月くらい悶々として、それがようやく「美しい」ということだとわかったときというのはそれまでの人生で一番発する光にみちあふれたと思う。自分が感じる「美しい」というのは、つまりこの音楽を聴いてこうゆう風に感じるということなんだとわかった。それまで自らなにかを「美しい」と思ったことがなかったのだということもわかった。それまでの私にあった「美しい」とは形容詞ということだった。そうして私の「美しい」の基準はつくりあげられた。これはべつに音楽にしか対応しないわけではなくて、すべてに対応するのだ。感じる対象は様々な形をなしていても、焦点があたり集約される場所は私の内のひとつであるため、そこには統一感が創られもする。「美しい」という言葉は私にとっての言葉の原点のようなものであり、だから大切なものの感じがする。

しかしこのCOPYというアルバムを聴く、毎日聴く、とても好む、好む以上の大きな存在の感情が一体なんなのかというのはずっとわからないでいた。このかんじはつまりいったいなんなんだろうという漠然とした気持ちで、16歳や17歳のどうしようもない灰色のような日々を過ごしていた。そんでそれはいつになってもわからなかったし、大好きすぎるので追及するのも疲れるからただ好むから聴く以外にはないようにも思っていた。そのまま今でも相変わらずよく聴き続けながら、あーでもなんなんだろうこの感情は、と思わざるをえなかった。でもそれがついこないだ、twitterで書いててッピーンとわかったのだ。あ、そっかあ。とまるで単純なことに気がついたようにしてわかった。それは気がつくというよりも、わかったという理解なのだな。それは「許し」ということだった。

私はCOPYというアルバムを聴いて、優しいなぁとは思うも、でもそんな単純なことじゃないそんなやわいことじゃない親切とかじゃないべつにこれにすがってもないし救われたいんでもない。ただこれを聴いている間は、やすらぐようなものはずっとずっとあった。そう考えていたら、ああこれは私にとって「許し」の時間なんだと思った。去年教会行ったりしたせいもあるかな、「許し」という言葉の意味がややそちらの方へ傾く意味合いとしてすんなり自分に入ってきた。しかし私は教会に通う気にはなれないので、もっと単純に簡単にしたかんじでの「許し」。最初の頃はそうじゃなかったと思う。でもいつのまにかそうなってた。

私は自分を責めることしかできなくて、でもそれはとても苦しいことで、そしてそれは誰にもどこにも口に出せなくて、それは大学に入っても現在になっても消えたりしなかった。どこに行っても、いつになってもそれは消えなくてむしろ増強していくばかり。生きていること自体に、年をとればとるほどに、そのまま自分の罪が増えていくと考える。その中で、この音楽を聴いているときだけは自分は許されるような心地になるんだな。私は許してほしいと思ってる、でも許されるはずがないとも思う、許されてはいけないのだと自分に何重にも紐をくくりつけていく。そうやって生きてく中で、この音楽を聴く時だけは紐を絞める手をゆるめることができる。そうゆうことだとわかった。救いではないと思う。

聴いている時というのは許しという明確な言葉をもってではなく、もちろんもっと混沌としている。その混沌は自分の罪の形をあやふやにしてくれる。脳みそがぐにゃああっとほどけていくような感じがする。それをもたらしてくれる音楽が、唯一無二の「許し」。ああそうだったんだ、そして今もそうなんだと、ついこないだわかった。ところで15歳の時から聴いてるわけだから、あれからもう7年半くらいたったわけで、先月で23歳になったわけで、とりあえず7年半という歳月にビックリだな。昔は5年がたつとも考えられないと思っていたなあ。




今年に入って映画館に5回行った。水曜に『ハルフウェイ』見て昨日『ロルナの祈り』を見た。私にしては多い。千円のときにしか行かない。そして美術館などへ足を運びにくくなっている。ギャラリーあわせて4つだな。写美だけだな。去年から思ってたけど、映画というわりと受動的でいられるものを選びがちになり、いくらか自ら歩み寄っていくアートに対して足が重くなっているのではないか。もちろん映画だって目をつぶって眠ることもできるし、途中で席をたってもいいけど、とりあえず椅子という安定感のあるとこで前を向く作業は、自分でその作品の前で足を止めるかどうか、どれくらい止まるか、頭をいろいろ働かせようとなるということと比べると私の中では色々と無駄な事を考えずにすむもの。もちろんアート作品を見ていても足を止められてしまうという事はよくあることで、それは力強くていろんなことをふっとばして忘れさせられる。なので結局ふりわけえられる事象ではないんだが、なんとなく今は多種多様な表現がありうるアートにはなにか恐れがあるし(表現の中身のことではない)、まあ簡単に言ってしまえば結局疲れたくないみたいなことなんだな。思考することを避けてる。思考したくないような。映画が思考しないんじゃなくて見れば見るほどするんだけどその入口がやややらかいという、それくらいのことだ。それでもこないだ行った束芋がすごくよかったのでやっぱりアートの力は信じるものだしすきなものと思っている。そして昨日は恵比寿映像祭に行った。無料で色んな映像作品見れてうれしい。チャン・ヨンヘ重工業、ジェネラル・アイディア、初めて見たけどとても面白くて素敵さにあふれてるなと思った。




過去と現在と未来と、私はどこについて考えたらいいのかわからなくなった。それらは全部繋がる。だからややこしい。しかし私は部分部分で考えたいと思う。しかしその作業が全くうまく出来ない。それらは全部繋がるし、それらは常に更新されるし、過去は完全ではなく未来は見えず現在は一番見えないから。けれどこないだカウンセリングで話をしてて気づいたことがある。私にとってその重大と見なす過去の部分は、決定的であり、同時にとてもあやふやなものなんだ。私はそれをとても重要なもの、その後の私を形作ったもの、私のすべて、と見なしているくせして私はそれを細密に語れない。それは前からわかってた。そこはもう既にバラバラにされている。残されたとぎれとぎれの破片しかない。それは元通りの器にはなれない。しかしそれが全てなんだと信じている、のみこまれている。それだから、あやふやでもあるということを受け入れてなかったなと思った。あやふやであることはもどかしい。そこに答えがあるような気がしてしまう。本当はないかもしれないとも思う、思いたくない。その頃というのは、数ヶ月前の出来事さえも完全に記憶からなくなったりしていた。大まかなことは覚えていても、細部はすぐに忘れていた。そのことに気づくのにまた時間はたっていた。私はそれからずっと記憶を落としてきたことが悔やまれてならない。記憶を落としてしまう事がこわくなった。落としたくないと思った。落とすこと、なくすことは、そのまま自分が失われることのように思えた。