診察とカウンセリングに通うことはなんだかんだで救いのようなものになっているのかもしれないと最近よく考える。カウンセリングは1回50分でこれまでに4回か5回行っている。ほとんどひたすら私が話をする。似たような話のことも時にはあるけど、今のところはまだ常に新しい話。今はどんどん過去へと遡っていく話。心理士のKさんはしっかりと話を聞いてくれ、時々私の表現に対してそれはどうゆうことかと詳しい表現を訪ねたり、言い換えたりして返してくれることもあるし、私が口にした言葉を繰り返したり、私が言い表したことに対してへえなるほどという感じに相槌を打ったりすることもあってそうゆう反応を見て私自身、改めて自分の感じたことを言葉にした作業について反復感が返ってくることもある。

カウンセリングは保険適用外で一回の値段がとても高い。それを今のところ2週に一度受けているのだからより高い。それなら話を聞いてくれる友人がいればそれで断然済む、という話はよくわかる。確かにそうだと思う。でも私にはそれがないからカウンセリングは他に存在しない唯一の手立てと思う。まあそれにやっぱり色んな事をわきまえている、受け止める姿勢を保つ心理士さんは距離感があるからこそ私はなんだって話をすることができるし、やはり反応の仕方などにおいてもそこになにか別ものを感じるから、今のカウンセリングは他に代えがたいものと思う。

カウンセリグの場では、今までに誰にもどこにも吐露できなかったものを言うことをしようとする。できるだけ自分の見て思い感じるままを考えるままを、それがどんなにあくどくて汚くて皮肉で恥ずかしくて他人には曝してはいけないようなものでも、そう設けられた場だからという理由だけで私は今までに声にしてはいけないと思っていた事を、人に話して聞かせるなんて思いもしない出来事や考えを、さらさらとしたお茶漬けのように口はすべるようになる。

それでも毎週行く直前まで憂鬱な気持ちは高ぶっていくばかり。50分の中でなにがどう終着するかはわからない。いつも明確なとこに着くわけでもない。ただほどよい疲労感に包まれて終えて安心するだけで、頭はふぬけて何を話したかもあまり覚えていない感じになる。

いつもいつもうまくちゃんとなにかを話せるかどうか不安に思う。自分にどんな話すべきことがあるだろうかと不安になる。どれが必要でどれはくだらない不必要なことかと考えると胸の内側の方がどろどろとねばついてくる。無意味なことをしてはいけないと迫られる。意味のあることをしなくてはと思う。自然と2週間の間に色々な事を考えたり思い出したりするから改めてそれを整理してノートに書いたりはする。でも大抵はその場でつなぎ出てくる話がほとんどのようになる。話してたどっていると、そういえばこんなことあんなこともあった、その時どうだった、それと今との関係、意外なものが出てくることもあったりなかったり。けれど、どうにもなかなかうまく話せないこともある。

例えば父や母や姉について説明することがどんだけ難しいかを思い知る。その人たちはそれぞれの役割があまりに大きく、人に説明するにしても詳しい性格特徴を説明する必要性は今までになかった。けれど、具体的にどうゆう人ですかと聞かれると、あまりに近くにい続けているから客観視が全然できなくて、いったい何者なのかわからなくなってややパニックになる。それは結局主観でしか語れないようなもの。家という構造はやっぱりややこしい。どこの家も同じで違う。違っていて同じ。

家の詳しい事情について、詳細に語るということは、家の秘密を打ち明けてしまっているという風に感じられる。家での出来事は大抵外には漏れないものと思う。家のルールや関係性や役割。そこに発生する出来事というのは他者には簡単には説明できない。そのようなこと、今まで誰にも口にしたことはなかった。それは必然的に外で口にするようなものではなかった。けれど、そこで自分が思い抱いてきたものこそ私をつくりあげているものだった。そのことだけは、ようやくわかった。私の自責感やらはどこから生まれたかといえば、家の中からだった。

何日か前に見た夢で、私は高校生の制服を着て泣いていた。その涙のわけは制服を着ていることへの苦痛からだった。その苦しみから泣いていた。その苦しみの感覚は、現実でのそれとまったく同じようだった。夢の中でも私は泣いていた。そのサボテンのようなにがみのある感覚というのは咀嚼して味わったことがあるわけでもないのにまるで舌の上にその感覚が蘇ってくる。そのにがみをにこにこして受け入れるなんてことはできないけれど、はたしてそれを拒否する権利は私にはあるだろうか。私はもっともっとその味わいを噛みしめていなければならないのではないだろうか。

まったくもってぜんぜんなんにもかけない。