液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

すっかりごぶさたになった。特別書かなきゃーという思いすらわきあがらなくなっていた。それでも時々布団の中とかで脳内シミュレーション的にはてなの編集画面開いてーあれ書いてーこうこう書いてーというイメージ作りはしていた。だけどいざパソコンの前にいると調べる事だけ調べてさっさとおわりにしてしまうことが楽で、もうべつに日記なんてどうでもいいような、どうでもいいこと自体どうでもいいという感じ。なんかあれだな、ひとつ思い当たったのが、以前はあれこれを日記に書こうとパソコンの前にいない時に考えておいてそれを実行するというのが形体としてあったんだけど(今も消えてるわけではない)、それがカウンセリングに代替されてきてると思った。

大学生の頃から授業ノートとなんでもかんでもを書きとめておくノートをひとまとめにして、大体一年間でB5サイズくらいの分厚いリングノートを一冊使う感じで、その名残を卒業後もひきずって今でも睡眠中に見た夢のことでも、お金の計算でも、すべてのメモ、カウンセリングや診察でのあったことや、また、カウンセリングでこれ話そうと思ったことを連ねておくことにしてるんだけど、最初の頃は箇条書きみたいなのだったのが、今では日記に近い形でノートに書き記しているから、ここのはてなへ書くものが結局そこで消化されてきてるのではないか。いつも大抵ベッド横に置いてあるから夜とか思い立ったときすぐに書けてしまう点ではてなよりスピーディ。そしてそれらを見直して全体を把握して、それをカウンセラーに伝える作業、という過程を取得してしまったのもあって、ここはおざなりになったような。でも今年入ってから見た映画の感想とか書こうと思っても全然書けないでいたからそれはそれでやっぱり書くこと自体の能力がなんらかによって落ちてるんだろうな。

それでもここは捨てきれない。結局いつもここのことを考えている。どうしようかなと。どうであれなんであれ継続。youtubeでドラマ「ケイゾク」の映像少し見ちゃって興奮してしまった。今までの体験上、もっとも惹かれたドラマなんだな。でもそれは中学生という無知無垢さとかもあってかなと思う。なんだかわからないけど今までに見たことのないものを自分じゃ知らんが備わっていた感覚が察知して、それを言葉でどうこうしようとすることもなく、ただ見ることを迫られた、という状態だったと思う。んで今ではそのときをこうやって言葉にできてしまうんだからおそろしいわー。

ここの方向性をいつのまにか自分でもイメージを作り上げているとこがあると思う。自分が感じたものの記録、記録ということが大きな面ではある。まあそれだけなんだけど。でもそこに付加価値みたいなのをつけようとしてるんだろうであって、そのイメージにそぐわない感じになってきちゃうと書いちゃいけない気になってしまう。それはなんだかんだでやっぱりネット上で人の目を無視できないからと思う。でもやっぱりそれは三の次くらいにしといていいだろう。無理なことはしょうがない。でも自分でもどろろんとしてへどろみたいな日記、全体のイメージになってしまうのは嫌と思ってる。でもそれがどうしようもなく現実なのだから、悪臭を放てるだけ放つしかないか、とふんぎることにする。したい。やっぱね、ここで書くことを選んできている自分があるわけだ。



先週の木曜はカウンセリング、今週の火曜は診察へ。カ(以下略)のことを考えるといつも気が重くてたまらない。昔と同じ、行きたくない行きたくないとなるのはなんでだろう。やっぱ他者と一時間も一対一でまともにテーマ絞って話をするって相当苦痛感があるのかな。日常的じゃない。

こないだから大分話の焦点が絞られてきていた。家族、主に母について。カ(略)に意味はあるかなーと考えるけど、今のところ意味を感じる。なぜなら毎回その最中によって自分で初めて気付いてくることがらがあるし、それを経て、また自分で考え、それがまた次につながるというサイクルが今のとこはあるから。また、自分の状態を(過去であれ現在であれ)他者による言葉で聞くことによって実に新鮮な新たなイメージをもってそれと出くわしたりもする。

べつに、自分の根本的な“悪いことは過剰に良いことは無視する”という考え方が変わったりするんではなく、自分の考え方や関係の持ち方、在り方というのを少しの客観視をもって見れるようになってきている、ということが重要なんだと思う。それはアダルト・チルドレンという言葉を受け入れ、取得してきていることも絡んでる。これまで、ただひたすらに自分の中で永遠に循環している罪悪感や恐怖や恐れの類の情念みたいなものがうずまくところでひたすら苦しかったものを、それはなぜ、なにがどうでそう思うのかということ、そもそもその苦しみとは、何をどう感じて苦しんでいるのかということ自体を自分で理解することができるようになってきた。


例えば、私は家族の中の境界線というのをちゃんと持てていないらしい。例えば、姉が母から責められていたり、いくつもの就職の面接がうまくいかないことなどを、私は、私が悪いからなんだと自分の責任のように思い自分を責める。また、これはよくある話かもしれないけど両親の喧嘩を目にするとそれもすべて私が悪いからだと自分を責めこむ。これは、物心ついた時からそうだったように思う。

今こうやって書き出したことを、私は今年になるまで自分で全然気づけていなかった。ただ自分を責めて苦しい思いにかられることにしか焦点があってなくて、何がどうなってていう物事の経緯を見る視線をまず持ってなかった。なんていうか、今ではこうやって何によってどうなって自分が苦しんでいるのか一歩引いて見ることができる。そうすると、それらの状況に実際は私の責任はないことが一見わかる。もちろんそれでもすぐに一歩は戻って私自身を悪と見る考えを変えられはしない。それでも、こうやって自分が何に苦しんでいるのか、自分はどんな位置にいるのかということを、言葉で、イメージで掴むことが出来たというのはすごく大きな発明で、それはどんな電球よりも強い光を放っているようなもので、べつにはじめから安心感なんて欲しいと思っていたわけでもないのに、自然と、その放たれた光にきょとんとしたゆっくりとした深い呼吸の安心さを感じる。

今まで考えなかった、考えずに無視してた部分なんだと思う。源泉つきることなく溢れ出してくる苦しさそのもののみを胸に抱えて、おいおいと泣くことしかできなかった。今はなぜその苦しさというものが生まれ、それに私が突き動かされてしまうのかとわかるようになって、それは世界地図の四角形の面積がひとまわり大きくなったというような感じ。


そして、さらに歩を進めて、ではなぜそんな思いを持つに至ったか、ということ。それは大抵本に書いてある。けれど細かいことは個人や、家でもちろん異なってくるから、それは自分で考えるほかない。私はいつも母のくれる愛情を疑っている。いつこれが途切れるんじゃないかと心配してる。自分はいつ裏切られるだろうか、いつか見捨てられるんじゃないかと不安を捨てられない。だから、捨てられないための努力をする。そうすると色々とねじは狂っていく。つまり私は母に翻弄されているようだと感じる。

カ(略)で喋っていて気付いて自分で驚いた。私が母からの愛情を確信できて、安心を得られるというのは、私にとっての愛情とは、何か他に比べるものがあって、それよりも自分が選択されているということ。自分が他のなにかよりも選んでもらえたとき、私はそれに勝ることができた、そう感じることができることが私の安心ということ。するっと丸餅が喉からそのままの形できれいに巻き戻しの映像みたいに戻ってきたような感覚でそのことを自分で喋れて実感したとき、自分でも冷静にショック感があった。あー私そんなふうに捉えてたんだなーと思うと、かなしさがあった。

ずっとずっと私を理解してほしいのに全然理解してくれなくてそれがすごくショックでいつも私と母の考え方には大きな大きなほど遠いズレが生じていて、そうして私はどんどん道を踏み外していくようにして愛情をもらうためにはとじたばたもがいてネジみたいにねじれているくせに、決して自分を理解してもらえることが愛情とは感じてなかった、見出していなかった。もう理解してもらえるなんて信じてないはずなのに、時々がんばって理解してもらおうとしてしまう。けれど、突発的にそんなことしても伝わるわけなくて、むしろ食い違いをより大きく痛感してより大きなショックを受けては失望してしまう。だから、本当に心の底から理解を求めてなんていない自分がいるんだと思ったら、へえー…ほおー…と内臓周辺すっぽり抜き取られたような感慨に陥った。ぽかんとぽっかり。


最新事情はこのあたりくらいかな。でもまだ他の事柄もじゃらじゃらくっついているからこれでハイ、ストンというわけではない。それらはどうしても自分の頭の中でも整理がつかずでまだ葉脈がこんがらがっているというか、暗くてまだ見えない。正直こんなふうにあれこれが姿形を表すようになってきてそれがどんな手触りか、ごつごつざらざらもぞもぞしてるのか、それじゃこれはそっちであれはこっちでって分類するようになってって、それで意味が出てくるのか、統一的な導きはあるのか?って思う。ないかもしれないと思う。でも、あるかのかもしれないとも思える。なかったときには深く失望するかもしれない。でも、あるも、ないも、ないのかもしれないな。