液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

桜を見に行ったはずが、それよりも広大な菜の花畑に圧倒される。にぎわう人々も完全に桜より菜の花に見とれていたような。ちょっとあんまりあそこまですごい菜の花畑もなかなかないからかな。思わずぽわ〜と空想的世界にひたるようなところだった。



もしかすればここは一世一代の病みどころなのかもしれない、と思ったりする。だからってそれに終わりはあるとは限らない。現状が、ある時〜ある時までのくくられた期間のものごととは言えない。むしろ、死ぬまでの一生との見方の方が強く思える。だいたい私の中では16歳の時からひどくなる一方という持論があって、この論でいくと悪くなる一方というのがおさまることはありえないように見える。でも大抵いつも思うように、こんなひどい苦しみは今までで一番だと感じてもまた更なるひどい面持ちの苦しみは更新されてわが身にやってくる。なので終止符はないと感じられるし、それは死でしかない。だからつも苦しみにみまわれてもういやだほんとうにいやだ終わりにしたいと心から強く思うとき、それはつまり死をもって迎えるしかないんだよなあということ。

まあそれでも大抵毎日ぼんやりとはやくしにたいなあと思っているわけで。穏やかな晴れた日曜日に母と銀座に向かう電車の座席でなにも主張してないような窓の外を目にいれながらも頭の中にははやくしにたいなあとかいうことをむらむらと考えていて、それは私のなかだけでもわもわ生産されていて外には全然もれださない。電車に乗ってるくらいだし、誰のどこにも私が思ってることを推察されるわけもない。なので他の人たちのものも私には一切もらされてこないのだなあ。


土曜日、二人のおば(母の姉と妹)に会った。妹しかいないと思っていたから、その場に行ってお姉さんの方もいるとわかって、内心とても驚いてしまった。幼い頃からお姉さんの方は大の苦手だった。生活態度がうちとは全然違っていて、厳しくて、辛辣な言動、表現が小さい頃からびくつく感覚として蓄えられてきていて、さすがに年を経てきてからはあんまりびびらないで平然とした気持ちでいようとしているも、やっぱりどうしてもいやな人イメージはぬぐえず、相変わらず棘や皮肉がたっぷり抽出できそうな雰囲気にたじろぐ私がある。なので、ただでさえ顔を合わせることには抵抗感があるのに、最近の状態でしかも今日の状況をともにするのかあーと思うと、もう自分の顔がささっとひきつっていくのを感じられた。こころに金網がかかったような感じ。気分は十字架に磔になったような。ごったなセール会場。

薄手のフードのついたウィンドウブレーカーみたいなのを探すという目的の為、とりあえず居心地の悪さから逃れるため、三姉妹から離れて一人ぶらり。薄手のものを見つけそれを買ってもらう。それからお昼を食べて。もうひたすらずっと自分がどうゆう態度でどうゆう表情してどんな人間でいればいいんだろうかと、喉にひっかかりを覚えながらもやもやした行き場のない心地でいた。どうゆうふうにあれば、悪く見られないだろう、身分相応に思ってもらえるだろう、卑下されないだろうということにばかり思いがとらわれる。その時点でもう自分はほんとはここに来ちゃいけなかったんじゃないかという思いにかられてる。そう思う節があるならば、来るべきでなかったのに、来ている自分の愚かさに嫌になる。

私がうまく、ちゃんと働けないこと、人とうまく正当なコミュニケーションがとれない面での大きな理由の一つとして、他者の気持ちを無作為にひたすら想像してしまうところがある。ちょっとした表情や仕草、声のひびきひとつとっても、どこからでも私という人間が責められ否定されるイメージを誇大化してしまう。想像する、というのは結果にすぎないようなもので、その場にいる瞬間瞬間にはパッパッパッと写真が切り替わっていくように次々に自分が悪人として裁かれ審判がくだされていくように、ただそれを受け止めているような状態。想像してるんではなくて、それが真理なんだと受け止める。はじめから怖れおののく気持ちが根付いているから、他者を前にしたとき、自分で考えていることが他者の考えている事なんだと完璧にすり替えられてしまってる、というようなことなのかもしれない。

こうゆうことは日常的にも起こっていて、だからおばたちを前にしても、私は自分が蔑まれてるように思えてならない。迷惑に、邪魔に見られてると感じてしまうし、働いてもいやしないのによく来れるわね、くだらない人間なのによく生きてられるわね、来るんじゃないと心の中で考えているんじゃないかと考えてしまう。そうやって想像していくと、自分がどんどん冷凍庫に入れられた食品みたいにカチコチに凝り固まっていくのをなんとなく感じる。

そしてとても恐ろしくなる。心の中でごめんなさいと繰り返し唱える。これはなんとなくいつからかの癖になっている。小さい頃から何か悪い事をしてもごめんなさいと口に出して言えなかった。でも心の中では思ってる。言いたいのに声に出せない。そうしたらいつのまにか自分ひとりの中でだけでそうゆう状況に追い込まれると執拗に唱えるようになった。生きててごめんなさいと今までに何万回くらいかは思ったんだろうか。

昔から、なにかものごとをきちんとやり通すことができないという事実がずっと自分の中で後ろめたいことだった。なにひとつ得意と言えることも自慢できることもなくて、なにもないことが申し訳なかった。ちゃんと普通にすることができなかったことが自分の大きな過ちだと思った。それなのに大学にまで行かせてもらった。それなのにちゃんと働くこともできない。なにの自立も出来ないままでいる。そんな人間なんて、無能な使い物にならない失敗作だ、って、言われている気がする。しらばんだ目で、そう見られていると感じる。おばたちにも、そうゆう視線や気持ちを想像せずにはいられない。母がどんなふうにおばたちに私のことを伝えてるかもわからないし、私の知らない所で母が私の悪口を伝えているかもしれないとも思うし、また、おばたちは私のことなんて何も知らないわかっているわけがないのにという反発心さえも抱いてしまっている。いつもそうやって矛盾した思いを抱いてる。そうゆうのは汚いと思ってしまう。

お昼を食べ終えて、ようやく別れることができて、心情はほっとするところが素直にあった。より一層責められることがないようにと、笑ったり欲張ったりしないように、自分をひた隠しにするようにして過ごす時間だった。身体は自然とそう反応していた。それから解放されると、ほっとしてしまうのだな。でもなんだかあまりにも疲れすぎた。突然の驚きで、何の用意もなくそれに反応して作り上げなければならないのは、ちょっと難しかったかもしれない。だから、別れてからも、ずっとさっきまでのことを考えてなければならなかった。

夜になって布団に入ってもめぐりめぐる。一体何がどうだったか、自分はなにをどう考え感じたのか、自分は何なのか、そんなことを考えているとひとつところに辿りつく。あー、自分で自分を殺せない自分が許せないのだよなーと思う。その答えに行きつくと、嗚咽が止まらなくなる。涙の質がここ一年で特に変わってしまった。なんかひどく悪質で純粋のような、いやまだよくわからないけど。思い描いているのは、自分で自分に決定的な審判を下して、罪を負わすことなのに、私はそれを実行できていない。それが私の理想と現実。つぎからつぎへと新しい扉を開いていくように、苦しみが時間と一緒に自分の体ひとつにやってくる。つきあげてくるひたすらの苦しみ。言葉にするとこんなにも漠然としてて曖昧で単調なのだから、余計にむなしい。

毎日のむなしさと生きること。夕食を作っている時間はわりと忘れられている。