最近ひどくは気分が落ち込んでいない。ある程度にはきたりしているけど、日を追うごとに口を閉じ表情をなくし思考がぶるんぶるんに螺旋階段を降りていく、というほどまでのものは三週間くらいはきていない。決定的なものはきていない、という感じ。それは準備するわけではなく唐突であったり定期的っぽくきたりする。
それらは決定的な事象としての鋭さを兼ね備えているの、中身はひどくあやふやで何かを指し示すことのできる舵は欠けている。まるで16や17のころと同じように。その頃がそうだから、今もそうということなのかもしれない。私にとってそれは全ての方向を形づくることができて、陽のあたる場所とあたらない場所さえ自由に変えられるようなものに思う。でも、それは砂漠で画面がゆらいでいくように、幻覚に見てる風景にすぎないことでもある。それは果たして本当に正しく長針と短針が機能している時計といえるのか。それは影でできた時計かもしれないように見える。
というよなことにこないだ気づいた。なんで今まで全然気づけなかったんだろうと思うけど、気づきというのはだいたいふいにやってくる、そうゆうものだから、何も口をはさめない。この最近発掘されたような新たな視点は今まで5年以上にわたって私の頑なな決めてかかっていたものごとを、新しい俯瞰撮影技術によって撮影された映画みたいな目新しさのように提示した。でもすごい驚きみたいな感じは薄くて、当然な気配。
それでもこうやって考えることができるにいたってるという時点でやはり単純に当たり前にそれは大きな出来事にかわりはない。その頃の私はことばをしらなくてわかってなくて、自分のことがわかってなくて、自分が何を思い何を感じているかということに頭が回ってなくて、けれど人間の機能としてついてまわってくるかき氷をぐしゃぐしゃとシロップに押し混ぜていくような現実と内省とただどこまでものびていく風景と考える力が停止した様というのは、現在で受けとめようとしていくしかないのかもしれない。
あーもうこれいじょうはことばはむりだ。いまはまだむりだ。ことばにするとこっぱみじんになるイメージがまとわりついている。私のこっぱみじんのイメージというのはブラック・ジャックで描かれるこっぱみじんの感じ。