液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

クラシック音楽を聞くのがそんなに嫌いじゃないことに気がついたのは高校一年のときに選択した音楽の授業の時だった。書道と美術は中学までの経験上、常に失敗になることをおそれてびくびくして取りかかって実際なんともいえない沈鬱感を感じることになる泥船にゆられて気分が悪くなったようなものだったから、消去法ですぐに音楽を選んだ感覚をしっかりと覚えている。このことを思い出すと、そうゆう思考過程を自然にすんなりと当たり前にとっていた自分というものは、自分の力でなにかをどうにもしようとはせず、流れるままにただきゅうりをぽりぽりと一本そのまま食べてるようにすごしきっていたんだなぁと思えて、なんだか幸薄いうえに何も考えてないバカを体現しているように感じられる。でもそれが自分だなぁってすごくわかっちゃう。自分の持ってるものではむしろあらがえない、それまでの環境、世界に従順にはりつけられてきた結果の成果物としてはまっとうな品とも思える。ある意味なにも間違ってない、正当な感じを受ける。けれどそれは愛しくはない。いつ
もそれは砂が横に均質に流れている空間の奥にぼんやり置かれていて、私は眉間に弱い力をこめて不憫さを思ったりしながら傍観しているだけ。
その何の間違いでもない選択の授業には必ず鑑賞の時間があって、それの感想かなにかしらを書くという安易な形式は気づいてみるとなかなか楽しい作業なことに気がついた。数分間の間大きなスピーカーから流れてくる音楽について何の情報も特に知らないまま自分が聞いて思い描かかれ現われてくるものをわらばん紙に書いた。クラシック音楽からは色々な想像ができた。自分で勝手に意味をつけたりすることができた。想像や空想の力があまりないと思える私は毎回似通ったふうにも思える景色を見てたと思うけど、それでも自分になにかが入ってきてそれが具体性をおびていくことを自分の中で感じることができて、それを言葉にしてひとまとめにするのは、実際的なやりがいがあるようなものだった。だからこれが好きかもしれないと気づいた。でも小中学校の頃からちゃんとした熱心な興味にはならなかった。作曲家の名前も曲名も時代も、覚えもしないし一致もしないしむしろべつにまあどうでもよかった。ただ聴ける音楽があってそれが心地よかったりすればなかなかいい。くらい
の感覚は今になっても変わってない気がする。
ただ今は好きな作曲家があるかもくらいはある。そもそもピアノだけの曲の方がオーケストラよりも好きな傾向がある。たぶんあんまり風景が大きくなりすぎずにすむ、そのぶん脳みそも大々的に溌剌としなくていいささやかな波にゆらめいでいられるような点でそうなのかもしれないと思う。ドビュッシーラフマニノフは特にいいなと思う、私の好みがそこにあるなと思うし、ベートーヴェンショパンは何かを指し示したり配置するのに必要なものとしての大きさとしての乗用さみたいなのを感じる。でもまあ基本的にさわりのさわりの少量しか聴いてないからなんもかもが曖昧で雑ないいかげんさ。家にあるオーソドックスなものを物足りないと思いながらもそれを聴く。
結局のところ、現在につながる私の音楽の選り好みや聴き方などは、義務教育からの成立があるようには一応思える。もちろん音楽の授業だって好きとは言えなかった。好きな科目なんてなにもなくて得意もなくてどれも平板で覇気がなかったけれど、一番なんやかんやを考えたりする必要のない期待も裏切りもなくなすがままでいられる唯一ではあったのかもしれない。
なんかだいぶどうでもいいぬるい話になった。平穏な日々ほど太陽に虫眼鏡をかざして体の内側からじりじりと焼きつかされるような、焦げていく無辺の問いかけが綿毛みたいに予測不能な飛び方をしてふわっとやってくる。生きてていいのか?という問いを肯定することができない私のありようとは何で出来上がってきたんだろう。