いつだったか忘れたけど写真美術館に「やなぎみわ マイ・グランドマザーズ」を見に行った。連休の時だったな、たぶん。新聞とか雑誌でもちょこちょこ取り上げられたうえでの効果はどれくらいなものかわからないけど、老若男女の層が見てとれた。2000年から撮り続けているというマイ・グランドマーズシリーズを新作を含めた30点で見せるというもの。たぶんこれまで私は生では見たことがなかったと思う。イメージとしては豪快に笑う赤毛の女性の写真が一番よく見る気がするしこれは強烈さがある。

撮影はまず、公募したモデルへのインタビューからスタートします。50年後、どんなグランマになりたいかを具体的に話し合い、カメラの前で自演してもらうんです。衣装や小物もひとつひとつじっくり話し合って決めます。


モデルは小学生から40代の人まで、また男性もいるという。男性もいるというのは今回で初めて知った。なんかもっと厳密な制限とかがあるのかと思ってたから、あらそんなことないのか。グランドマザーであることが重要であって、そこに生まれる想像や意思、またその過程に重点があって、モデルの性はこだわることではないのかな。私はなんとなく女性が見る自分の50年後、ということ、同じ性だからこその感じが重要なものとしてあるのかなと見てたから、ちょっと意外でまだちょっと不思議。

大きく引き伸ばされて展示されてるグランドマザーはどれも個性的だなあと思った。よくみんな自分の50年後というものを想像しているなあというのが一番大きな感想。私はそもそも自分の未来の想像はしても40歳くらいまでで、それはそれくらいまでには死んでおきたいなという感じが中学生くらいからあって、だから必然的にそれ以上の年齢の自分を想像する必要がなかった。自分がそれ以上生きているという感覚は抱かないし抱きたくないから、どんな形であれ人がグランドマザーという年老いた女性を想像することができる、ということに妙に驚いた。私にはまったく想像がきかない。見てまわっているとじゃあ自分はどうだろう?という疑問が自然とわきあがってくるんだけど、うーんないなあって感じだし、だから様々なグランドマザーに対しても共感ができない。想像が欠如してるからなあ。

しかし見ている分にはとても楽しい。不思議な心地になる。目の前にあるグランドマザーというのは想像の産物で、つくりもの。モデルには特殊メイクが施され、写真によっては背景は合成で作られている。それに写真によっては非現実的な物語があみだされてもいる、神話のような。けれど、完全に丁寧に作りこまれたその写真世界と、老婆という長い年月を様々な経験をして今そこにあるという存在の強さとが、すごく生き生きとして伝わってくる。現実と想像とがまじりあった世界で、そのどちらも飛び越えたようにその写真の中で生きている人間が見えて来る。写真の横にはそれぞれにテクストが用意されていて(これはやなぎみわがモデルといくらか相談をして、最終的にやなぎみわがイメージにあうよう調整して書いているらしい)、それぞれの物語をその人物に合わせたような文体で書かれている。それによって更に写真世界への想像は深まるし飛躍する。一人一人の老婆に対してどうしてそのような姿をとることになったのか、写真に切り取られた瞬間の前後にはどんな物語があるのか、というところまで想像は広まっていく。それがグランドマザーというものが持つ力だなあとじんわり感じた。それは想像で作り出されたものなのに、一人一人の老婆に思いをはせてしまう。様々なグランドマザーがいて、会場には様々な生や老いへの接し方が氾濫していた。一人一人のグランドマザーの物語を楽しむことができて、すごくおもしろかった。

出る頃にちらっと、背の低いおばあさんっぽい人を見た。遠くだったからわからないしその正確さはどうでもいいとして、おばあさんの年齢の人(というのもよくわかってないんだけど)がこの写真を見たらどう感じたりするんだろうかと思った。何か違う感じるものがあったりするのかな。やっぱり、写真にある世界は想像であり作られたものだし、現実の老いとなると、はたまた一体どんなものかよくわからない。私の二人の祖母を見ていたところでよく何かを理解してるわけでもない。作られたものだからこそリアルさを見出すのかなー。現実で見る老いって、自分で体験していかなきゃやっぱりわからないのかな。


思いのほか長くなった。日を変えて、母と銀座の松屋でやってた「描かれた不思議な世界 ミヒャエル・ゾーヴァ」を見に行った。母が招待券をどこかでもらってきた。こうゆうのはわりと沢山ばらまかれているんだろう。
ミヒャエル・ゾーヴァの展覧会って、大阪にいたころ、2回生くらいかな、京都に見に行ったことがあって(日曜日の朝突然思い立った)、たぶんその時の展示とあまり変わりはないだろうなと思ってたし、実際ひどく混雑してたし、後半の方には見たことない作品があったためそっちの方だけを見た。こうあんまり間近で緻密な塗り込められた絵を見ることってあまりないので、どんだけ見てても飽きないとこがある。小さい作品がほとんどだしそこに動物とか人間がよくわかんないけど妙なユーモアさや深刻さやらをたたえて描き出されていて、かわいい。この人はどんどん上塗りして描いていくらしいのだけど、その画面の厚塗りされてるような感じとか、筆あととかも見ててとても楽しい。うわー重なってんなー(塗料が)ってだけで踊る気分になる。はらはらする。私は絵画見てると基本的にどうしてどうやってこれが描けるんだろうという疑問が常にあがる。自分がぜんぜん描けないことにコンプレックスをもってきたからか、絵を描くというのはものものすごいことに見えてしょうがない。怖ろしいことのように思える。


それから、ギャラリー小柳に内藤礼「color begining」を見に行った。とりあえず母も一緒に。昨年、東京都現代美術館で見たビーカーに蛇口から水が注がれてる(だけじゃないんだが)作品があったけれど、なんかちょっと違う感じがした。ビーカーの中に入ってるそれがもろに丸見えしている。美術館で見た時はすぐにそれはわからなくて、じっと見ている中で気づく、それが作品だと感じたものだけれど。水の勢いが強い、それでいいのかな?まあ空間も全然違うからな、判断しかねる。でも都美術館の時の感動みたいなものは感じなかった。そして母が「私でも作れる」と言った。ええもうそりゃごもっともで。他の電熱器や布の作品もくいっとくるものはあったけど、それよりうっすらとした淡いもも色の色んなサイズの絵画作品がじっと見ていると眼からはいって脳みそがぐらぐら静かに煮えたぎってくる感覚で、印象的だった。色彩と脳が交感しているようだった。
内藤礼の作品で感じてしまうものというのは基本的に言葉にならない。まさに言葉にならないものと思う。ただ、人間だから感じることのできるものとしての強さがある。ささやかな気配にいつのまにか体の中心が支配されてしまう。体の中心が目覚める。他では感じようのないものにビクっとさせられる。
次のギャラリー小柳の展示は鈴木理策だそうで、その情報を知っただけでこころがうわずってしまう気分になった。