液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

土曜日に東京近美へ「ヴィデオを待ちながら―映像、60年代から今日へ」を見に行った。あと二日という期日だったのもあってかどうか、なかなかにぎわっていた。若い人おおめ。なんで、ヴィデオを“待ちながら”なんだろうと思ってた。なんでヴィデオを待つのかなーみたいなぼんやり思いもしない程度。1400円で一つ一つの作品の解説の書かれたA4の半分くらいのサイズで分厚いカタログを買ったら書いてあった。チラシにも書いてあったかな。HPには書いてなかった。

現在「ヴィデオ」という語を耳にする時、そこにはうっすらと誇りをかぶり始めた、「過去のメディア」という響きが感じとられるかも知れません。では『ヴィデオを待ちながら』―すなわち時代から取り残されつつある「ヴィデオ」を、なお待ち続けるとは、いったいどのような行為なのでしょう?

中略

「ヴィデオ」はもともと、ラテン語の「videre(見る)」の一人称単数系「video(我見る)」に由来する言葉です。ですから単にメディアや機材の固有名であるという事実をこえて、「ヴィデオ」とは見る、すなわち美術の根本を問う、きわめて普遍的な語だと言えます。

中略

『ヴィデオを待ちながら』とは、過去に含まれる潜在力を見出す視点と、未来を予見する視点とを同時に含み持つことに他なりません。「見ること」をめぐって展開された60-70年代の映像表現の豊かな可能性は、なお結末にたどりついていません。

いまだ訪れぬ「video(我見る)」を待望し続ける事で、私たちの眼の前には、新たな眺望が次々と切り開かれるでしょう。

「ヴィデオを待ちながら―映像、60年代から今日へ」カタログ「ごあいさつ」より


ヴィデオの語源が「video(我見る)」っていうのは初めて知って、おもしろいな!と思った。ヴィデオっていうのはどうしても機材に対してあてはめる言葉でしかなかったから、そこにはもともと見るという意味があったなんて、はあはあそうなのかあ。へえええー。待ちながら、ということについてはこれを読んでわかるようなわからないような、こうゆうときに自分の頭のなさにがっくりするんだが、とりあえずこうこうと定義されてこの展覧会が催されているという認識を得られただけでとりあえず納得をする。しかないような感じでもある。ついでにカタログに掲載されてる序論の文章も読み通したけれど理解には及べない。読む前の知識がしっかりしてないところがまずだめだ。久々にカタログ買っておかたい文章読んでやっぱりなんだか挫折感を味わった。

展示内容はすべて映像作品で、まず最初に小さなかこい部屋が作られたところでウォーホルの2面投影の作品『アウト・アンド・インナー・スペース』を見た。お、これはおもしろい。ウォーホルという人はやっぱりなんかとんでもなく頭の良さみたいのを越えたとこでものごとを捉えていた人なんだということを、色々な作品を目にするようになって思ってきた。あんまり興味なかったんだけど、昔は。エンパイアステートビルの映像だったかな、それを大学3か4年の頃見て、すごい感じを覚えた。一見したところ、とりあえずわかりやすいイメージの提示がまずいいなと思う。単純なわけではない。そして刺激的。また刺激方法が他ではなく、不意打ちされたような突き抜け感がある。なんでも今まではヴィデオ・アートの始まりはナム・ジュン・パイクだと言われてたわけだが、この作品の方がそれより数か月早いのだとか。

ここまで書いてきて全体的に書くことも決めてないしで早々に切り上げたくなってきた。会場の前半、60.70年代の作品はどれも黒く物量感のきいたSONYのブラウン菅のテレビで統一されていてそれがかっこよかったな。床に直に置いてあるものもあった。解説文の簡素な見せ方もいいなと思った。後半につれて壁投影で見せるものが増えた。ブルース・ナウマンってやっぱすごいわーーーと特に思った。今朝の朝刊で今年のヴェネチア・ビエンナーレの金獅子賞がアメリカ館のブルース・ナウマンになったことを知って、うわーと思った。うわーには色々混ざっている。

ひたすら言葉がつきまとって頭をそれなりに回転させるものの追いつかない感じでヴィデオ、映像に関していろいろ知れて楽しかったけれど自分がどこまで理解できているものか怪しい気分もずっとしていてそこがずっとひっかかってたりして、自分はなにがなんだかよくわからなくなったというよくわからないことになった。頭が回りきらないわ。一気に見たから流れをつかむにもつかめきれてないような。一つ一つの作品の把握があやしいような。むむ。この文脈の中で語られることを理解しようとするのはたやすくないよなあ。まあ、でもそうゆうややこしいことは置いておいたら、いいんだけど。映像作品って、どっかリズムみたいなものがあるものがあって、そうゆうのってついぼーっと見るだけ、見てるだけでなんも考えてもいない感じで、ひどくぼーっとしてて、それはそれでいいのかどうかよくわからないなと思う。読解を試みなきゃいけないんじゃないかって脅迫感がある。けどそれはとっても無理なときもある。全部無視してときめきが生まれる作品もあれば、それはないときもある。そうゆうときっていったいどうすりゃいいんだろうと思ったりする。


所蔵品展は前に見たことあるなーってものが多かったのでわりととばして、小企画展「木にひ潜むもの」を見たら、これがよかった。2階の小企画展はいいのをよくやるなあと思う。会場内に小さな冊子もあり、それを見終えた後に読むと理解が深まる。特に小谷元彦の映像、木彫など数点からなる作品群がおもしろかった。この人こうゆうこともやるのね。意図的に驚くように設置された少しグロテスクな毛髪のついた人面マスクと血のついたようなエプロンが最初に目につく。そして映像作品がある。ヘッドフォンが横に下げてあるのだけど、ヘッドフォンは手に取らずもれる音からお楽しみくださいみたいなことが書かれてある。チェインソーの音にふり乱れる映像。つづいて能面が3体壁にあるが、手が加えられている。そして大きな木彫と、それとほぼ同じ形をとった小さな鋳造物。全部あわせて小谷元彦の作品とわかったのはすべてを見通してから。映像だけ名前が入ってたのを見ていた。まとまりある感じが面白くていいなと思った。




NHKでドラマ「ツレがうつになりまして」の2話を見た。なんだか見ていてなみだぽろとしてしまう。自分とおなじ言動だーっていうことより、演技でしてるだけの演者(原田泰造)の行動に自分の中のものが機敏に反応してしまうところが苦々しくもいたい。母は原田泰造が自分の頬をグーで殴る場面で、「おんなじだわ」と私を見て言う。否定したいようなできないような気分。「てんさん(奥さんの名前)の仕事が決まらないのは僕のせいだ」と泣きながら言った場面で母と姉は笑っていた。いや私はわらえないのになー、いやはやうつの人の言動とは冷静に見ると滑稽だったりするのかもしれないと思った。私もそのまんま同じように人の、家族のうまくいかないことを自分のせいだと考えるところがある。私の場合そこの点は非常に根深い。

よくよく考えたら(考えなくてもわかるのかも)、奥さんが返したように「そんなの全然関係ない」のだけど、そうゆうことは本人には全然通用しなくなっている。とりあえず私の場合。自分は役立たずの人間だーって声はしっかり聞こえてくるし、ぜんぶ自分のせいだ、自分が全部悪いってなことにいつのまにかすりこまれているんだろうか。でも、母と姉がその台詞んとこで笑ったのを聞いたら、あー理解されないもんだよなあとしんみりしみじみ思った。まったくバカなこと言っちゃって(わらい)みたいな感じにとられたって、おかしくないのはわかる。たしかにそうだ。だけど、本人にはそれは深刻な問題であったりする。本気でそう捉えている。滑稽だなあとわが身を知る気分になった。私だって自分でもなぜか分からないけど、ぜんぶ自分が悪いんだって考えてしまう。そしてそれをずっとしているとひどくなっていく。うーんわからない。

そういえば最後に診察に行った時に先生がぼそそっと「あなたは双極性II型かどうかちょっとまだわからないけれど…」とか言っていたことを思い出したので調べてみた。聞こえた時、聞いたことあるあるけど詳しくは知らない、けどたしかうつ病の種類のようなと察していた。そしたら軽躁病というそのまま躁の軽い、自分でもわからないような軽い躁状態うつ状態とを繰り返すことをいうらしい。厳密にはもっとあるけれど。ほおーたしかに、という感じを持ちつつ。ところでこれは遺伝性がわりと強いらしい。精神病でも遺伝の割合とかけっこうあったりするのらしいからびっくりしちゃう。なんとなくどうしても「こころのびょうき」みたいな捉え方してるからかなー、個人的なものって感じを持っている。でも病ということで身体の病と同じとしていいのかな。うつ病にも色々種類があって中身も治療法も一概ではないんだけれど、基本的には脳内伝達物質がなんやかんやみたいだから(機能障害があるとか)、こころがどうのこうのだけじゃないんだよなあ。それがちょっと私は受け入れがたいところあるかもしれない。

病気。ドラマのなかでも「病気なんだからしょうがないよ」という台詞があった。母に同じことを言われる。しかし私はそれを受け入れがたい。なのでそれを言われると嫌になったり悲しくなったりする。やはり自分の中には色々な沢山の矛盾があるんだと思う。



図書館でむらかみはるきの長編小説読破計画をあと少しで終える所で新刊発売の影響なのか、ほとんど借りられていて借りるものがなかった。ひどくがーん。あと3作品だったのに。しかたないので彼が翻訳をしているサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」、シェイクスピアの「テンペスト」を借りた。そして数少ない中からドビュッシーラフマニノフのCDも借りる。キャッチャ・イン・ザ・ライを読み始めたところ、おもしろいのでがーん気分も弱まった。