ロンドンの地下鉄のエスカレーターは日本のものより高速だった。そしてエスカレーターの横壁を使った広告類が整然とかっこいい。静止画を動画的に流してる広告(?)も、ただでかい一画面だったらなんだけど(でも日本ではそうゆうのを見るような)、写真のように整列しているとなんかもうアートみたいだなと感じた。あとは同じ大きさに統一された様々な色彩をもったオペラとか舞台とか(だったような)のポスターがずらっとやはりエスカレーターの横壁に並んでいるのは非常に鮮やかで新鮮でかっこよかった。




2.3週間前に病院に行き、どうも自分でもうつと軽躁を繰り返す双極性II型障害ってやつなんじゃないかという感じで話をして、先生からもたぶんそうでしょうと言われる。繰り返しているといえば、それはもう10代の頃からだから、自分の判断としては反復性のうつみたいものがある、それとともに性格的ななにか、環境からのなにか、そうゆうのが混ざってなにかへんなことになっているという風な見方が一番適当に思えていた。うつうつとしたところから、回復していく、普通になっていく、元気になっていくようなかんじの時は必ずやってくる。それぞれの期間というのは常に変動があるけれど、ふたつの繰り返しと言われれば確かに繰り返していた。
ただ軽躁というのは自分では、周りの人でも気付かない、またさほど害を及ぼすものでもないということから、それとは気付かないということ。だから自分では、うつが時としてやってくる、という捉え方でしかなかった。自分としてはふつうになってきた、物事に取り組もうという意欲がでてくる、という状態は悪いものではなくそれこそが妥当であるという心地。
しかしその状態が軽躁であるならば、結局繰り返し自体がわるい事で、軽躁が軽躁であればあるだけそのあとのうつがひどくなってしまうから、なんともいいとこなしのeverydayではないか…という陥没感と、まあ結局全部悪いのか、ならぜんぶおなじか…という開き直り感が生まれるような。
しかしこれが10代の頃から本当にそうかというとよくわからない。頻度が特に高まっていったのは二十歳になったくらいからのようにも思う。大学1.2年の頃はまだ深刻さにかけているところがあり、それより以前はむしろもっと重悪な感じでまたべつのものの感じ。まあ診断名をくだすにしても完璧さはないということもあるし、なにかひとつで全てが説明できるわけはないだろうし、私も別にまあ何でもいいやという気がする。
ただとりあえず自分で何かを知り何かを自覚するというのはきっと大切な事で、それがあるかないかで本当に全然違うよなあと思う。私は自分で調べてこの病気の名前のやつかもしれない、と思っても、自分で自分がそれ、病気という事は認められないでいるというちぐはぐな状態にある。自分自身で精神における病というのを受け入れていないのだと思う。他者においてはどうだろうなーという気もする。自分の判断というよりも、世間の、もしくはそれよりも狭いところの目を気にしているのかもしれない。他者は私をどう判断できるというのか?というよなとこに、もう性懲りもなく延々とひきずられてしまっている。
自分みたいなやつがそんな病気だなんて、こんなへらへらくだらなく生きてる人間が、まさか、ただのあまったれが、そんなたいそうなことは言えないという感じだろうか。がんばらなくちゃいけないということを、ただできていないだけなのに。そうゆうような自分の中での決め付けが強い。それで薬を飲むのも抵抗があるというところもあり、それでちゃんと薬も飲んでなかったらじゃあ全部やめなさいと医者に言われ、結局こないだ行ったときもこれっていうのはびょうき?なんですかね?としどろもどろに質問し、ええだからそう言ってるんですけどねぇ、でもあなた自身受け入れられないならしょうがないからととりあえず薬はもらわないまま、また薬を飲む気になれば来なさいということで終えた。
完全に自覚とまではいかずとも、事実があるという確認はできている、することとなっている。それは少なからず受け入れなければならない体制になると思う。ただ解決方法がどこにもないように思えることが不安や焦りに繋がる。薬を飲む治療にしても、一生涯飲まなければいけないというwikipediaの記述には無意識の所でざわつかされ、それが後になって不安として怒りとして噴出した。それでも私はこの病気の名の下においてはそこまで重くないほうなのではーと思う。ただそこに性質的に絡む面のうつりかわりで、そちらもつられて重度が決まってくるような。まあ、わからないや。
ここのところはそれぞれの数値が低くも繰り返しが頻繁に起こるような感じで、昨日も朝からひどく泣いてしまう。この泣きの性質が、ほんとうに、去年からまったく以前とは変わってしまったということが自分でもすごく気がかりなところであり、ひどく謎でそれに宇宙ほどひどく遠い距離を感じざるをえない。ただ泣くのではない。ひどい泣き方だ。前まではなかった。そんな非定型の言葉でしかよく言い表せない。頭の中身が変質するような感じになって、それによって脅かされて世界の終末に襲われるような絶望感が、わさっと覆い尽くす。色々なイメージが沸きおこって重なって、私の体感として世界が変わってしまう。まるでそれは嘘みたいだと思う。ただひたすら布団類を口に当てて恐怖のような叫びを発しつづけなければいられず、自分を力強くたたきつづけなければいられず、後から考えれば自分というものが薄くなっていくような酸素の薄さ、気配の薄さ、空間の薄さみたいなものを感じる。
そうゆう状態の時の思考には、ひたすら偏りが出てくる。思考の偏り。そこには世界があって、ああなんかそれはつい『海辺のカフカ』にでてきたような、何か形あるもので仕切られているんではなくて、何かによって開かれ閉ざされているかんじ、とかつい思ってしまった。





すごく久しぶりに池袋のタワレコに行って、アース・モニクという人の演奏のドビュッシーのCDを買った。二千円程度で二枚組で夢などが入っているので安いなあと思う。そしてこないだ浦和のパルコでなんかずっとやってる中古レコード販売のところで、サンソン・フランソワという人が弾くドビュッシーのレコードが600円(状態良好)で売っていて、母の買い物と一緒に買ってもらう。ただこれはいつの録音のものかとかの情報が書かれてなくて、けれど調べたところ、あと数曲でドビュッシー全曲集を録り終える直前、70年に死んだとのことだから、そこらへんと考えていいんだろうか。サンソン・フランソワの演奏には個性さがすごくあるというのことくらいは、とりあえずわかる。

そしてyoutubeドビュッシーの月の光でこんな映像を見つけた。おおおおお、べつにすごく目新しい事ってんでもないけどなかなか素敵。平坦で完結的だけれど、だからこそ音色がよくいきて聞ける気もする。




昨日NHK-FMをながしていたら、千住明がゲストで出ており、今度出すCDにNHKスペシャルのロシア特集に作った曲もそれに入っていると聞き、その曲だけほしいなと思ったくらい、あの曲はよかった。番組内容自体が魅力的というか、ロシアを知ることができた面白さがあって、音楽と合わさったオープニング映像のよさもあって、すごく好印象を持った。ただラジオの中で流れたのは大河ドラマ風林火山のメインテーマだった。こちらは毎週見てよく聞いていた曲だったから、ドラマの映像をいろいろ思い出した。ラジオは最後までは聞いてないけど兄弟の子供時代からの話がなかなか面白かった。この時に限らず、親(に限らずともその周辺の大人なのかな)の存在、態度ってこどもに影響というか反映というか、するんだなあと最近時々思う。でもそれも一部なものなのかなあ。厳密なことは分からないな。