液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

テレビで「序」を見て、ああやっぱりミサトさんとシンジが手をつなぐ、ぐっと握り返すシーンはぐっとくるなあと思った。一番いいな、すきだな。やっぱこの二人の関係のことが一番いいな、すきだなあと思った。そしてミサトさんは86年生まれで同い年なんだよなあということを思い出した。私は2月うまれだから学年にしたら違うけれど、このミサトさんの年齢の話で「序」公開時にがやがや話題になった気がする。それにしても2年近くたって見聞きすると、専門用語がどれもなつかしく響き打ってくるなぁ…。エヴァ一人で見に行くのはさみしいな。なんとなく。ひどくなんとなくだな。今日は深夜にTV放送だな。
そうゆう専門用語がちりばめられてるところとか、アニメとしてTVで継続して放送される時間の中での物語の構成の仕方とか(その巧さ)が、電脳コイルエヴァに近いものがあるなあと思う。ただ真似とかいうことではなく、それぞれどちらにもそのもっていきかたには驚きを隠せない。これは私がどちらも後からいっぺんにすべてを見るという見方をしているせいもあるのかもしれないけど、例えば映画のアニメでもなく、特に期限の決まってなさそうなひたすら続きそうなアニメでもなく、おおよそ24話とかそれくらいの期間、時間設定があるなかでのTVにおけるアニメの物語というのは、こんなにも強靭なのか、と思う。
電脳コイルの磯監督は、エヴァジブリの制作にもかかわっていたということだから、そのどちらもの感覚を彷彿させるところがあるなあと見ていて感じたけれど、それでも完全に独自の物語の世界が広がっているからなんだかよりそれらとは境界線をもった独自の物語としての輪郭がある感じがする。電脳コイルの世界は、自分の足で歩いて行ける距離の世界の物語として設定しているらしく、たしかにそのことが見ていてすごくひびいてくるところなんだろうなと思う。まあそれは最終的に後から理解する程度なんだけど。人肌を感じるというような点では電脳コイルがつよいな…と思う。
ついでにBS2で放送していた蟲師も終わってしまってとても寂しい。2.3年前に民法で放送していたものらしいけど、今回見れてよかったなあと思う。日曜日の24時前の時間がひどく待ち遠しくてたまらなかった。こんな静かなアニメはみたことがないというような静謐さを持ちつつも(CMとかないから余計そう感じるのかな)奇妙ながらのびやかで生命力あふれる様々な蟲や、まっとうな人間味あふれる物語が、一話完結のなかに毎回しなやかに潜まれていて、すばらしかったなあ。原作は前々から読んでみたいと思いつつも手に取ってこなかった。お金があれば買いたい。
作者の人の創造力はすごいなと思う。様々な種類の蟲の生態の設定が面白いのは勿論、その蟲と人間との絡みの自然のありようみたいなとこがすごいと思う。蟲と関係を持つ人間の平常さというか無心のような佇まいも魅力的だし、ギンコという主人公を通して作品全体に通っている蟲と人間、または時代設定としてずっと鎖国したままの日本、江戸と明治の間にある期間という架空の世界でありながら穏やかさと厳しさを兼ね備えた日本の古き良き風景、土地などをふくめ、すべての生命のそのままのありようの許容というか、広い視線がなかなか他のアニメにせよ物語にせよ、ないものだなあと思う。一定した視線のゆるぎなさみたいなものが、鋭く厳しいんだけれど、じんわり感じることのできる温かみがあるなあというのが、すごくよかったな。
鎌倉を舞台にしたガール・ミーツ・ガールの「青い花」のアニメ化もついにはじまっているけれど、なんかやっぱ自分の中でつくってたイメージとはなれてるあたりが気になってしまう。色彩も原作からのイメージをそこなってないけれど、この色はもうちょっと濃い感じがいいかもとか、細かいとこが気になってしまう。全体的にちょっと淡すぎるような感じかな。まあなんにせよ紙に印刷されるものと、ブラウン菅に映るものとじゃ、そりゃ違いが生じるもんだよなぁもと思う。紙に対する色づけというのはいいものだなとか思ったりして。でもたとえば絵画とかじゃ印刷されちゃったらやっぱ本物の色とは違うしな、と思うわけだし、アニメがもともとであれば紙媒体になったときなんか色が違うなあと、それぞれにそれぞれで残念がるわけだから、いやはやよくわからないな。それにしても特に造形的にだいすきなキャラクターの杉本先輩の声が自分のイメージと結構遠くて残念気分。アニメの話に終始してしまった。



相変わらず図書館のむらかみはるき作品はほとんどなかった。長編小説の単行本がぜんぜんない。あんなにあったものものが、この近辺に分散もしくは一人で占めてたりとかしてるのかなあとか想像する。どんな年齢性別の人が借りてるのかなあとか。図書館ではこうゆうことを想像しがちだと思う。
大学生の時、江戸川乱歩の単行本をやはり連続して借りているとき、本棚に行ってない巻数があると一体どこのどんな人がこの古臭いにおいのする本を借りているんだろうか読んでいるんだろうかとよくよく思った。すごく間接的な想像世界の共有感みたいなとこかな。とりあえずそこで短編集があったのでそれを借りた。もとはアメリカで出版されたというもの。まだ全部読んでいないけれど、おおこれはなかなかよいかも。
読んでみたいと思う小説は色々ある。しかし私は決して読むのは早い方でないし、それでもまだ村上春樹などは読みやすくすらすら進んでいけるからいい。まあたまに独特の比喩表現のとこなどでは立ち止まるにしても。私はこれまでどちらかというと私が生まれるよりも結構前に書かれてるものを読むことが多くて、そうすると日本語でもすらすらとはいかないし、海外のものであれば文脈慣れしていないのとかいろいろな点が絡んでやはりすらすらとはいけない。まあまずそれよりも読書慣れしてない、小さい頃からの慣れがないことがあるかもしれない。小説のおもしろさってなんなんだろうな…。集中力があまりないからか、あまり多くの時間を読書に費やせない。だいたい眠くなってくるし、疲れたりもする。読書するよりは結局ぼーっとすることを選んでるかもしれない。それでも読みたいとする欲だけはわいたりする。どこかねじれてるような、ないような。なにが本質かはよくわからないかも。
なんていうかあれだわ、書こうと思ってる事を結局こうしてどんどん避けていっていることがこうやって如実に表れてきている。



映画「ディア・ドクター」を見た。やっぱりこの監督巧みなんだな…と思った。そして女性撮るのうまいなと思った。ただラストの方での研修医の描写がもうちょっとほしいように感じた。あと数秒ででも研修医の表情がほしいような、でも十分なのかな、どうだろう。それは私が映画を見ている最中の見落としがあるからなせいの気もするし。なんとなくこうひっかかってしまうと、もう一回見たいなと思ったりする。役者さんみんないいなと思ったけど、特に八千草薫はすごいよなあと思う。ドラマ「ありふれた奇跡」でもこの人はなんだかすごくてこわいと思ったけれど、この作品でもやはりもうなんか妙なこわみを醸し出す人物に感じられた。それは役どころとしてそうなんだけど、発せられる雰囲気が、なんだかもうその存在だけで無言で核兵器廃絶も可能になるかのようなものが放たれている感じ。おだやかな目、ゆっくりとした丁寧な声、何物も寛容に受け入れそうな態度、ただそれらがあるだけではなく、それらを支えているものの目に見えない強靭さみたいなとこがなんだかおそろしい。すごい人なんだなあと思う。食べ物とか、静物を印象的にとらえるカットが時々挿入されるのは「ゆれる」でもあったのをよく覚えてるから、単純に、なんでこうゆうの入れるんだろうとか思った。脚本も自身で書いたものでしか撮らないというこの監督は、やはり物語、台詞が現実にひけをとらず大きな一歩をしっかり踏み出しているなあという感じを受ける。岩井俊二同様、安心感を覚える。岩松了の「夜が暗いなぁ」って台詞、岩松了が言うとなんかもう最高すぎるかんじの高揚感をおぼえた。全体的にいいなと思うシーンが沢山あったな。見た後からあれこれ色々と考える。見てるときだけでは思考・解釈がおいついてなかったかもなあ。



こうやっていっぱい書いてくると消える可能性が出てくるため、経験上、とりあえずコピーしといたりとかする。なんだろうなあ、自分で自分がどんどん手に負えなくなってきているというか、時に自分が距離という測りのない世界にいってしまうことがあって、それでいてそれを上から客観視している自分が発生もしたりして、しかしそれはその世界を知っているわけではなくただ自分を眺めているにすぎないだけで、だからまあ結局はまったくしらない真っ白な世界にポンと身体ごと放り込まれているような状態になっている。そこでもがいている。そこでの呼吸の仕方も分からないから。そしてその自分の愚か具合を眺める視点がある。それはただの無関係な視点でしかない。ただその視点があることによって、後々に一体あれはなんだったのか?という問いをもつことができる。あれは一体なんなのか、まあそんなことを考えることしかない。
自分のコントロールのない、意志のない(ように思える)感情の放出。先走る感情に私がコントロールされる。その感情ははたして私かどうか。私はその時、感情を私自身とは思えない。自分ではない何者かによる操作のもの、として感じられる。釣り竿および釣り糸である私は、たまたまひっかけた獲物、あばれまわる感情に振り回されるというイメージ。まあしかしそうなるとその釣り竿をもつものは誰かってことなんだが。わからない。そこには顔なしの人間のようなものがいる気配はするような。わからない、それら3点は入れ替え可能のものかもしれない。私としての感情ではなく、感情という個体性を感じる。でもやっぱりそれは私から作り出されたものかもしれない。しかし感じられるときそれは別離したものと覚える。
強い衝動のようなもの、突き上げてくるもの、それが支配をすると思う。そこにイメージは存在しなくて、ありとあらゆる強いものとしての動きのようなもの。圧力を感じるもの。おしこめられ、ふりあげられるもの。そうゆう衝撃性のもののせいか、つづいて自分で自分をひどく痛めつけていくイメージが次々にわいてくることになる。イメージの中で私はもうひとつの個体の私をひどくぼこぼこにぐずぐずにあらゆる方向から殴りつけている。鋭利な道具でぐさぐさとひたすらに刺し続けている。一つの私が、もう一つの私の首を手で絞めつけている。何かが放出されるようにしてそうゆうイメージが頭の中いっぱいになる。主にその3つの手法のイメージが繰り返される。けれどそれは完全な殺しとまでは描かれていない。もう一つの私というのは、完全には顔が見えていない気がする。声もないし呼吸もないから本当にそれは生をなしてた人間か、私か、手ごたえは薄いのではないかと思う。実際にはゴム人形かもしれない可能性がある。ただそこには一方的な意思だけが色濃くただよっている。ひたすらな行為の虚しさも同時にうかがえる。でも、そうゆうものは関係ない、意味を持たない。これらはこれをイメージしようと意志して作って出てきたのではなくて、なにかとなにかが繋がった結果的なものと思われる。
自分で自分を殺したいと思っているからこうゆうイメージがちゃんとできあがったんだと思う。思った際にできたイメージとは少しなにかが変わっているようにも思うから、何かによる触発や経路があってこのイメージは作られてると思う。自分で自分が殺せたらどんなにいいだろうかと思う。それはとても夢物語。自分で夢物語として見ているのかな。それを白い目で馬鹿にすることはできる。だけれどなぜそれを思い想像しなければならないのか。それが作られる経緯は何なんだろうかと思う。考えてたどればわかることかもしれないけど、ただそうゆう存在の確認、認知だけでもなにか違うような気がして。
イメージの世界のねじ伏せる力の強さが現実に及ぼすこと。あもうぜんぜんだめだ、進まなくなった。
カウンセリングも行かなくなった。診察も、やはり特に薬が必要なのかよく分からないしという思いがあるから行かない。何かに信用や信頼をしていない。だって結局、それがあるかないかなだけのことであって、それをどうにかできるなんて信じられない。自分で自分が信じられないのだから。自分の発言に正しさは怪しい。自分が語る何かになにがあるのかわからなくなった。何を話すものとすればいいのか、見失ってしまった。この世界に私が生きていけるような道や世界があるとは思えない。それは世界が間違いなのか自分が間違いなのか。自分が間違いと思うことしかできない世界に私はいる。こんな考え、ばかげていると聞いて取れるだろうとも思う。ひとりよがりで、努力のない甘えだと思う。そう見なすことが正しい者なのかもしれない。そう思うとどんどん世界が終っていく。あちこちで扉の閉じる音が聞こえてくる。私の頭の中はいくらか変形があって偏りがあって色々な箇所でズレが生じていてそうならば病院に通うべきなのかもしれない。けれどその行為自体に抵抗があってひたすら右往左往してしまって出口を失ってしまう場合、やっぱりそれも努力の足りなさ、駄目さなのかな。噛みあわなくなってくズレが年をとるほどに深まってしまう。絶望感を覚えるっていったい何なんだろう。