液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


カーディガンなどの上からベルトをまいちゃうなんていうのは一体どうして思いつかれたんだろうかと不思議なもんだけれど、これが実際実になかなか素敵な様相になるからまた不思議と思う。一瞬なにかちぐはぐなんじゃないかと思うも、いやなんかなんか様になっている。これは雑誌や広告でこの姿形を認識しているからそれに感染して自分もそれを肯定できるのか、それとも自分の感覚で自分で判断して肯定しているのか、はたしてどっちだかなあ。ちょっとわからない。世間一般で認知されたものを受け入れられるようになってるだけなのかなとか、うたがわしい。


土曜日には急きょ予定変更をして浜松町で用をすますことなく恵比寿へ行き、写真美術館で展示中の「心の眼 稲越功一の写真」を見に行った。名前さえ知らず興味もあまり持っていなかったのだけど、数日前にBRUTUSフクヘンさんのところで記事を見て、お、なんかよさそうかも、と意識が変わった。
これがこれが、よかった。70.80.90年代に撮られた5シリーズからの作品。特に73年の「Maybe Maybe」というアメリカを撮った作品は印象強い。モノクロで表される一枚一枚のスナップショット。写真という平面なのに、そこに層を感じさせられるモノクロの色の豊かな深さがあるなあと思った。近い距離でとりながらも公演の芝の上でシートを広げている男女二人の表情は影となって黒くなりまったく見えないという一枚には撮影者の立ち位置みたいなものを特に感じた。同じく公園と思われるところで距離をとって抱き合う二人を見たり、シートから立ち上がったところと思われる人々(三人)を捉える視線がすごくいいな。芝の色がもやもやあっとした具合に出ててそれもまたいいなと思う。すべての写真に一貫して通っている視線の立つ位置、視線の送り方、四角の枠での世界の捉え方が、どこか涼やかで硬質さとやわらかさとがあって、けれどだからといって温もりに欠けるとかんでもない。焦りや緊張感などからは解き放たれている、すっとさっとなんとなしに吹いた風のような手際でそれらは撮られたような感じがする。人間と同時にある風景や空気をも一緒に俯瞰し覆い撮るような写真の、その距離や触れかたの心地よさはいつまでも見ていたいと思わされるところがある。一枚の写真を眺めているとみている私の中でその写真の世界が徐々に動き出そうとしてくる。まんきつまんきつ。
母はむしろ知っていた。なるほど、ここにあった作品はコマーシャルや肖像写真家としても活躍する一方の、私的なまなざしをもった作品なのか。母は前者の方の活躍で名前を知っていたらしいから、そうか有名な人なのか。
やっぱ、いい写真を見るのはたのしいな。ぼーっとしちゃう。


帰りに、JRの改札口外に新しく出来てた雑貨屋さんを除いた。雑貨屋とか最近めっきり見なくなったのもあってか、今まであまり見たことない種類の新鮮なものがあるように思えてちょっとテンションがあがる。中目黒のお店から入れてるらしい、様々な色柄形のボタンやレースやテープや細々とした手芸品がおそろしくかわいくて夢中になってしまう。でもNADIFFでよむ花椿ヴォルフガング・ティルマンスのポストカードを買って500円未満使ってたので、まあべつにいいかと何も買わない。花椿のすっきりとしたきれーな表紙デザインの中に、大学のときの学科長の名前があってびっくりした。ちゃんと専門分野について書いていた。まあせっかくなので買っておくことにした。




最近は夕食どきになるとイライラ度が急上昇してしまう。でもそんな自分は自己嫌悪だからなるべくさっさとハッと気づいて冷静になると思う。思えてその後どうにかそうなれるので少しは去年よりマシかなあと思う。イライラしてもね、なんも意味ないから、一人で空回ってよけいむなしくなるだけだから、それよりちゃんと現実を見た方がいい。
たしか、今月のはじめころに気持ちがひどく暴れてからは、ずいぶんと静かでいられている。その頃の重点的な思いは、なんでこんなことになってしまったんだろう、こんなことになるために生き、こんなことになるために生まれてきたのか、五体満足な体があるというのにきちんと働く事も出来ず何もできずにいる自分の生きてることのむなしさや絶望を見出してしまうこと、どこにも誰にも繋がっていない接続のなさからくる不信感や居場所、存在のなさの孤立感などが主な所だった。
絶望感というのは、知らぬまに言葉、その意味としては得とくしていたほどのものだけど、その言葉を自分の中からぶくぶくと自然の生み出すエネルギーのようなものとして、そのどろっとした黒の色合いをまるで見て触って実感したかのようにして、その言葉そのものを感じ、扱うようになったのはどうだろう、ここ一年くらいのことなのかな。絶望という言葉がどれほど意味のあるものなのか、どれほど重く、暗く、深く、一生その中に閉じ込められるというような外の光のある世界との決定に決定を重ね表れる断絶を持つこの言葉のこと、ああ全然知らなかったなあという感想と同時に、こんなこと知ってどうするんだろうという思いもあったし、この言葉の実感をもって知ってる人はどれくらいいるものかなあと思ったり、そんなこと思うのも無意味かなとも思った。
でも実際の言葉として表れてくる絶望は、なんだかうすっぺらいような気がして。私が使うには、全然中身なんかもないんじゃないかって気がして。私なんかが使っていい言葉なんだろうかって。私はその言葉を扱うに相応しいのか疑わしく。どんな言葉も何もどこにも伝わらないんじゃないかって、思う。私を表そうとする言葉はどれも疑わしい。すべて嘘として拭いとられるんじゃないか、誰もそんな私の言葉は細めた眼でしらじらしく眺めるんじゃないだろうかと思える。つめたい視線。視線すらないかもしれない。想像力の世界はいくらでも伸び膨らんでしまう。
まあでも絶望という言葉、一見うすっぺらというのは他者には見えない背景に恐ろしいほどの狂気が存在し、というふうにもとれるかも。