昨日は新宿の角川シネマで「縞模様のパジャマの少年」を見た。予想だにしないラスト。物語そのものは事実ではない。しかし、物語だからこそつくられたラストの悲劇によって、事実を、事実の重みをおそろしい思いとともにしっかりと捉えわが身にそのことを刻みつけておかなければならないことから逃がさない力があった。またその場所や人々が映像で描かれることによって具体的イメージを与えてくれて、それによる理解が深まるというか、その事象に近づく補助としての映像の役割って大きいなあと思った。
ホロコーストについて関心を抱くようになったのは特別なにかがあったからというんでもなく、たぶんイギリスに旅行に行って外国に興味を持つようになったのと、日本社会や世界全体の在りよういろいろなことを自分は全然知らないわかっていないことへの恥じらいなどとともに、もしかしたら映画「愛を読む人」もキッカケのひとつになってるかもしれない。特別これを見た後に俄然知りたくなったとかではないかんじだけど(まあこの映画も直接的にナチスのことなどを描いているのでもないから)。
図書館でうろうろしているとき、ちょうどホロコーストに関する本が目に入ったのも、それは偶然であって探していたわけではないんだな。知りたい欲のひとつとして動いたものであり、しかしそのようなひとつはそれひとつで存在してるんでもなく、そこから前後左右全方向に地球上のさまざまな事柄が繋がるようでもあるから、ひとつを知ることは決してひとつでは終わらないんだということも、ホロコーストに関する本をいくつか読んでいくことでしっかりと感じた。過去があって現在があり、そしてまた未来へつながっていく。その中に身をもつものとして、っこの世界を捉えようとしていく姿勢はもたなければいけないんだと思う。
私はほんとこれまで無知というのか馬鹿というのか、教育を受けていく中でもなにかに興味を持ったり知ろうとしたり調べようとしたりする姿勢をもったことがなくて、社会科の項目のものはテストのために覚え点数を取り、それはただ字面をひとときのあいだ記憶しているだけで関連や繋がりということにまでは勿論無関心で、テストの終わりの鐘と同時にすべてをどこかへとびさせてやっていた。しかしそのころは何にも興味を抱かなかったんだからしょうがない。悔やまれるけど、しょうがない。ひらきなおるしかない。とりあえずここ最近で気づくようになったんだから、そこからはじめるしかない。
ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)初めに読んだのがこの本。読みすすめるなかでとにかく呆然としてしまう。初めて知るさまざまな出来事は、本当に、人間がこんなにつじつまのあっていないような考えを持ち支持し実際に国をあげてこんな行動をとるのかと、信じられず、しかしそれが事実であり、それは過去にはじまり、おわりの形を持ってはいるけれど、現在にも生きる事実の大きさに圧倒された。作中でつぎつぎとあげられていく死者数は何万人、何十万人、最終的にその合計数として六百万人と数があげられる。なんなんだこの数は、という思いで、その数についていくことがとても苦しかった。これは一体何なのか、もっと知らねばならないと思った。
そして8月に入るとちょうどNHK教育でイギリス制作のドラマ「アンネの日記」が放送されて、映像で見れたのもあってより具体的に当時の状況がつかめたし、身を隠し一歩も外へは出れず、息をひそめ、常に怯えながら人間として生きた人々が、しかしすべてを無条件に奪われてしまうという想像力をフルに働かせて近づこうとしなければならない。
「縞模様のパジャマの少年」はもちろんラストだけでなく、そのラストまでの過程も説得力をもった様々な立ち位置の人物描写があって、とても興味深かった。また、ヨーロッパらしい(私の中での)きらきらとした木々と地面におちる光との光景がとてもおだやかで美しくて、だからこそその中で起こっている人間の行動やあり様が痛く刺しこんでくるものでもあったなあと思う。