キャノンのデジカメを買いました(私がじゃない、母が、だけど使うのはだいたい私)村上訳のカポーティティファニーで朝食を」を読んでうわーなんかこのひとすごいなーと思って「誕生日の子どもたち」をつづいて図書館で借りた。いひゃーやっぱすごいなー。さらさらとしたひりひりとした感じがどの作品にも流れている。それでいて描写がうつくしい。そのうつくしさもグレイよりの色味。でもすくっと立ちあがってくるので印象強い。すごくいいなー。そうかー有名なだけあるなあと思ったりしてしまう。



アンニュイ気味。母撮影。

またバラが咲く。

池袋ジュンク堂本店近くの珈琲貴族という喫茶店

開いてしまうと家の花瓶へ。

なにかの一瞬。

この家に越してきてついに壁に穴をあけてしまった。

所沢ビエンナーレ。手塚愛子の作品に見ごたえを感じる。



デジカメってやっぱ、なんだか、なんだか、やっぱりフィルムとは違うんだよな…っていう感覚をとてもとてもかんじる。これはコンパクトデジカメだし、多少のマニュアル調整はできるけど、それでもやっぱ一眼レフとは違うし、なんかもう世界がちがうんだよなあ…。うつる、みる、世界がなかなか違う感じがしてしまう。なんとなくデジカメでうつすと、どこにでもあるような、おんなじようなものに見えてしまうのは、ただ質感の問題なのかなぁ。デジカメの画面とパソコン上でしか見てないから、神に定着させたらそれはそれを感じられるのかもしれない。そもそもファインダーをのぞかない。そして撮った写真をすぐに見れる。そしてパソコンには線一本でうつす。物質感のなさが、すごおおおおく大きい。私は自分でプリントするわけではなく、お店に同時プリントで出すような、写真にちゃんと凝っている人間ではないわけだが、フィルムであるかぎり、シャッターをおした一枚が実際どう映ってるかを知るのには数日かかるし、それらは確実に一枚一枚としての存在だし、パソコンにいれようと思ったらややめんどくさくスキャナを使わなければならない。だから写真には時々スキャナについてたゴミも一緒に映る。だから、パソコン上でその写真をどんなにフラットに見てても、私の中にはそれは物質感がぜったいに残っている。他の人が見たらそんなん関係なくなってても、私には一枚の写真は一枚のものとしてあると認識していて、そのことって意外とでかかった…とデジカメであれこれ撮ってみたりするなかで感じた。あたりまえのことをしみじみ実感。映りに関しては、いたしかたないか。ボケがきかないのがいかんせん面白くない。まあそれでも毎日どうしたらうまく撮れるものか試行錯誤を楽しむ。