こんなぐあいに私はたいていなんでも三日坊主的になげだす格好になってしまうことがおおおおおおいい。だいたいすぐそれよか寝ることを選択しているような。それでも三日坊主をなん期間もつづけると、あとからみたとき連続性が生まれていないこともない。まあそれwよく表しているのがこれなのかもしれない。と思いたいところ。だめだなーなんかこうのってきたような気がしていたと思ってたら、すぐにプツリときれてしまう。休日に入ると環境的に書くのがむずかしいのはわかってるんだけど、その環境にあっさり自分がのっとられ浸食されてしまっているような。以前はなかったはてなの下書き機能も、ないころはそうゆうのがあればあればと思っていたのだけど、実際あると途中まで書いて結局書き終えずに新鮮味をなくしてぼつにしてしまう私にはなかったほうが良かったのかもしれない。とほほとおもう。とほほほほほほほほっほほ。空気人形のこと書いてた下書きがねむっている。どうしたものかと。結局めんどうなことに。

私は保育園から小中高大とどこの学校でも学校で人前で泣くことを恥とせずおっぴろげてやってきてるからか、まあわりあい人前で泣くことに躊躇がないんだと思われる。人前で自分の感情を放出することに抵抗がないというか、抵抗よりも放出が優先される。とにかくよく泣く泣くというか、さけびあばれる性質はちいさいころからありあまるものだった。そこらへんは身体が成長しても変わらず、最近駅で泣くことがたてつづけにあった。駅は広く人360度から沢山いる。人に見られようとお構いなしの精神は小さなころから変わらないのだろうか。小さなころは新宿だか池袋からの帰りの電車の中で靴を放り投げたりせいいっぱいぐずり倒したそうだから、やっかいだ。そして靴脱いだまま雪のふるなかを家まで帰って、まあそのまま家に入れてもらえなかったわけだが、頑固な意地はり体質はなかなかなおるものじゃあないらしい。しかし同時に反動のような性質が備わっていったようにも思う。でも根本のほうがより根強く色濃く本質としてあるのだと思う。
土曜日に母と電車の座席に座りながらの静かな口の言いあいのようなもの。私がすべてを否定した物言いをし、それを改めず、人の意見を受け入れたりしないできないとこが発端に、いつもたいていなるんだと思う。聞いている母はうんざりするのだろう。否定することしかどうしてもできず、しかしどれでは何も変わらないのもわかってる、でもすべてがこわく、自分を否定していくことでしか世界を見れずにいることのもどかしさ、どうしたらいいのかわからない、自分でも自分のこころの扱いようがわからないでいる、そのことを理解してもらえない私もむきになってすべてを放棄していく態度になる。だから、じゃあもう死ぬしかないや。生きてたってなにもない。ぜんぶムダだから。くそだ。とか言ってしまう。そうすると母は最近、勝手に死なないでよ。じゃあ一家心中でもしましょ。そのほうがマシ。という返答をするようになった。このような会話の時の雰囲気のぐあいとはいったいなんだろうか。おりる駅に着くころ、どうしようもない私は、じゃあどうやって死ぬ?とまで言う。「さあ…睡眠薬じゃないの。」「市販の睡眠薬でできるの?」「しらない…。」という会話。
もおう私は自分の中がぐちゃぐちゃになっている。統制がきかなくなる。私はとくに自分の感情を保ったり、おさえたり、整理する能力を身につけていないように思う。瞬時に自分をうしなう。そうゆう気持ち、感情はだれしもが持つのだろうけど、それを成長につれてコントロールする必要に迫られそれをなるべく表に出さないように覚えるのがふつうなんじゃないだろうかと思うと、私にはまったくそれがなく、表出することを厭わない。子供の頃ならまだ許されるかもしれない。でもこの年になってもそれがやまないというのは、一例として自分の部屋の壁をマジックで死ねとかって文字で書き埋め尽くしたり(これは自分に向けての意味)、壁に穴をあけたりカーテンぶっこわしたりするのは、ちょっとやばいなあと思うのだ。むかしむかしからこのような性質があることを思うと、発達障害のようなとこがあったのかなあと(あるのか)とふと思ったりもする。
自分の理想通りにできないことで、よけいに傲慢になっていくのではないか。自分でもそれがおそろしい。どうして私はちゃんとすることができないんだろう、ちゃんと働くことができないんだろうと疑問に思うとそこに自分が用意する答はもちろん自分を責めるものになってしまうし、できないということは欠陥であり否定されるものだという新たなステージがたちあがってくる。そしてどうしてそれを思うとかなしくなってしまうんだろう。泣いてしまうんだろう。どうして悲しさはあらわれるのだろう。悲しさや涙とはいったいなんなのか。どういう方向からそれらをなんなのかと言っているのかさえよくわかっていないのだが。
北海道に行く時、駅(まさに出発の駅)の改札でキップ入れたらうまく処理されなくて駅員をお待ちくださいのような表示が出され、ひとつの改札をとめてしまった。夕方のラッシュの時間帯で駅は人であふれかえっているところだった。改札はいくつもあるのにすべてが混雑をみせていた。駅員さんがくるのをまってると隣の改札を通ったサラリーマンのような人に「ふざけるな、ばかやろう」と言われた。はじめはビックリした、私に言ったのかどうかさえ瞬時には判断できなかったが、あきらかに私に向かって言っていた。私が意図的に止めたわけではないのに、なぜ私が責められるのだろうかと思った。そうゆうことを言う人がいること自体も驚くに値した。しかしそうゆうものに立ち向かえない私は、自分が悪いのだと受け止めてしまうほかなく、そうして泣いてしまう。ああなさけない。しかも自分でも予想以上にぜんぜん立ち直れない。うわなにこの沈み具合は…とこころは思いつつも、ぬけがらのようになってしばらく遠くを見ていた。しかも忘れられない。こんなんでどうしようかと思う。