こないだ図書館へ行ったらようやく『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』があった。イギリス旅行から帰ってきてから図書館へ行くと、それまでいつもだいたいそろっていた村上春樹の本がごっそりなくなっており、それはまさしく新刊に世間がわいわいわき始めたときだったため、あとすこしでぜんぶ読めそうだったのにという達成感をうばわれたという点でにがにがしい思い出がある。しかし、私はこれまであんまりそうゆう世間のはやりものに直面したり自分自身が体験したりすることがなかったから、こんなさいたまの一地域でもまさに現象がおこっている…!というのは非常にきょうみぶかあい出来事だった。まあこれまで公共の図書館を利用することもあまりなかったのもあるんだけど。
9月頃からはだいぶ本棚が落ち着いてきていたけど、それでも新刊発売前よりは作品がないことのほうが多く、その人気や影響力がうかがわれる。まさに一地域のひとつの図書館のひとつの棚の一番下の段というきわめて些細な部分からも、日本全体がうかがえるという、ただそれだけのことになぜかわくわく感をおぼえたりする。
ああそれで、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は単行本であきらかにぶあついので最初のうちには読んでなくて最後のほうに回してたら6月以来わたしが図書館に行く都度いつも借りられていた。他はもうぜんぶ読んだはず(小説に限る)わたしはめんどうなので予約とかしない。だもんで気長に待っていたら、ようやくあった。ふうううう。図書館には批評本もいくつか置いてあり、これまでにも力強い批判本も読んだけれど、これからまだ読んでない批評系の本を読んでいきたいところ。
私は村上作品は好きって感じよりも、興味を持つってかんじがあって、それがなかなか他にはないように思う。村上訳のフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は、物語の中にぜんぜん入ることが出来ない感じがあり、よくわからない、なにがおもしろいのか言われたらわかるけど自分で感じることができず、世界的に有名な作品を自分がとりいれることができないということになんとなくショックさをおぼえもして、まあ作品のあうあわないもあるもんだとも思いつつ、フィッツジェラルドのほかの作品も読んでみるべきかどうかどうかなあと思っていた。そしたらこないだ村上訳でないフィッツジェラルドの作品があったので借りたら、これがすうんごく面白く、虜になる具合を覚えたので、ああ読んでよかったと思った。村上訳でない『グレート・ギャツビー』も読んでみないとな。
アメリカの作品を読んでみている最近に思うことは、ああ、アメリカ人もかなしいんだな、ということだ。われながら、ななんてばかみたいなことを言うんだと思いつつ、それが一番の実感だ。まあそれが現実そのままでないにしても、時代、国、社会、文化などがそろいあわさった中での特有のかなしみや切なさが生まれるんだということが感じられる。それはきっとどこの国、地域の文学でも読めとれてそれを興味深く感じるんだろうけれど、なぜかアメリカ文学にそれをよりはっきりと感じた。ってまあまだまだぜんぜん量を読んでないんだけれど。ただ、文学作品で感じるその心地は、ニュースやドキュメンタリー番組などで見聞きし、時に歴史や人物を知ることから眺めているものとは、なんだか全然違うのだ。
なんでこんなことをこんなに書いたんだろうか。



池袋のリブロがいくらか新しくなっていて、雑誌コーナーに行くつもりが、そこに行きつく手前に上の階から人文・社会の棚が移動してきており、ひさしぶりに心理学やら精神分析やらと名づけられた棚にふらりとよってみて、いろいろ気になる本を手に取ってみた。そしてあいかわらず、ぐったり疲れてしまう。 豊富などの本を読んでも、結局わたしはどれかに当てはまるという確信が持てない。結局自分はなにものなのかわからない。何者というより何物というかんじのこと。者としてではなく、じぶんの中にある、その物だ。私の持つ、私の中にあるものは一体なにか?それは明らかにならないならならないでいいかもしれないとも思った。なんであれ、自分でどうにかするしかないことに変わりはないのだから、なんだっていいじゃないかと。自分でそれをうまく対処して、まるめこませれば、なんだって一緒じゃないか。
でも、やっぱりそれには無理や限界があるとも思う。冷静になった時、そう思わざるをえない。
んー、自分で自分を改めて客観視すると、人間はみんなだれしも変態でおかしくて狂っているとこがあるにしても、最近の私のそれはちょっと度をこしている。ちょおーっと、やばいだろうってかんじがする。思考にしても行動にしても、とびあがり度がすごいというか、天地にしかないというか、極端がすぎるところにいってしまっていて、平穏なかんじが足らず、いつどこで宇宙までぶっ飛びまたそこから地上にまっさかさまに落ちてくるかわからないというかんじ。これらはまあ、自分で制御できないこととしてある。基本的に自分を全否定してる考え方とか、突然衝動的におこる怒りの爆発的エネルギーとか、人間に対するおそれや不安や、極端な白黒をつけたものの考え方とか、勝手にこみあげてくる感情と涙とか。そして、そんなような、自分の統制できない自分というのが今一番苦しいことと思う。
叫ばなくてはいられなくなる、うおーとも、あがーとも、ずヴぉーとも、がわぎゃだがぎゃがあーとも、いくらさけんでも叫んでもさけんでもさけんでもなんにもすっきりしない。全然みちたりない。だからもっともっとさけぶ、叫び続ける。でも、叫べば叫ぶほどこころはどんどん苦しくかなしくなる。自分でも、近所迷惑なびりびりと割れるほどの大声なんか出していたくない。とめたい。とめてほしい。だけど、苦しくてさけぶ。さけびながら自分の叫ぶ声を同時に聞き、そのむなしさ、気持ち悪さ、どうしようもなさに、体が叫びをあげてしまう。自分のその止められない自分を、自分の意思を失い、コントロールすることのできない自分の突きあがった感情を、叫び狂う私は同時に見ている。止めたいと思うのに、とめられない。固い決心をしたかのようにすべてをふり切る自由になった感情に、私はのっとられてしまっている。私はここにいるのに、私は私をとめられない。とまらない自分が苦しく、叫ばないと苦しく、叫ぶしかない自分の姿がかなしい。無益なことをしている。
自分と自分が二手に分かれてしまう。そんなことが繰り返されていると、わけがわからなくなってくる。私が感じるかなしいとは一体なんなのか?涙を流すという行為は一体なんなのか?かなしいとは、何から生まれているのか?かなしいという感情をなぜ感じるのか、感じられるのか、それを知っているような状態にいるのか?私が感じるかなしいとは、人間共通のものなのか?人間がわかちあうかなしいとは?私は何にかなしいを見出さねばならないのか、必要なのか?わけがわかりせん。
叫ぶ私は、わたしだ。私はそれをわたしじゃないと言いたいのだろう。でもやっぱり私なので、私は私をどうにかしたいと思う。繊維質みたいにふたつにぱっくりわれるのは、できれば避けたいと思う。避ける道を選ぶことで、不安や恐怖におびえ逃げる態度をおさめられるかもしれない。そのためには、やはり何かしらの方法が必要なんじゃないかと思う。母は大丈夫と言う。そんな認識の違いにまたそば屋でなみだしてしまう。たしかに、大学生をなしとげはしたけど、その四年間のなかで何度も自分自信と対人とで悩みもがくことがあった。それが今につづき、悪い形になっていると思う。もう、そのころみたいにやりすごすことはできなくなったように思う。そんな技つかえなくなってしまった。魔法が使えなくなった…なかんじ。
しかし病院やカウンセリングはすっかりこわくなってしまった。自分の話すようなことはすべて無意味な無駄なことなんじゃないかと思えてしまう。お金も時間もむだにする。相手に嫌な人間と思われるかもしれない。そう思うとこわい。母になにか習い事でもなんでもいいからしたら?と言われてもかたくなに拒否してきた。いつもむだむだおかねのむだと言って。ここには、今までさんざんお金をかけてもらったのに結局なににもならなかった自分ということへの負い目、罪悪感があって、これ以上お金をもらっても、また同じ過ちを犯すかもしれない、きっと繰り返してしまうというおそれがのおおおーんと背が高く終わりと始まりが見えないくらい伸びた壁として存在しているということを最近自分でことばで認識した。ひどくこわいのだな。こわくてなにもできなくなっている。という一番はっきりしててわかりやすそうなことが実は結構よくは見えてなかったりもしたりする。私はお金にひどく敏感だ。私が早く死ねばそのぶん家につかえるお金が浮くのだから、それで家の幸せが少しは充実されるんだろうから私ははやく死ぬべきなんだと10代のころからおもってきたとこが成長して言ってるのだろう。ながい。