液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


お茶碗でイチジク浣腸をあたためる。


なんだかんだで年賀状を出したほぼみんなから返事がもらえた。今年はそろってちゃんと紙で返してくれたなぁ。さすがにしょうがないと思ってくれたのか。なぜかいつも私が買ってんに一方的に出すだけで、年が明けてからそれの返事をメールとかでもらうようなスタイルになっているのだけど、まあ年賀状というもの自体わたしにとっては手紙じゃあまりにも書くこともないような恥ずかしいような気がするところを風習にのっかってうまいことはぐらかすような、けむにまくような、というものだから、同時に知らずにトンと年賀状を出し手届いてというのもいいかもしれないが、このタイムラグが生じているのも悪くない。年賀状なのに。まあいいか。


月曜は鎌倉へ「内藤礼 すべて動物は、ちょうど水の中に水があるように存在している」を見に行き、昨日は都現美へ「レベッカ・ホルン展−静かな叛乱 鴉と鯨の対話」を見に行った。どちらもトーク、対談目当てにあわせて行った。んー、やっぱり女性の表現力ってすごいよなあとかって思うのは、どっかで男女の数の比較をしているのか。でもまあそれはおと、おんなとそれぞれ別々のものと見てるとこがあるわけで、とこんがらがるのでもうこれはよしとして。

内藤礼の作品はなんだか長いことじっとは見ていられない。そうしているとなんか時間や空間がこわくなってくる。目で見て、体で捉えられたならば、すぐにそこから立ち去りたくなるようでいて、時にひたすらじっと見つめてしまう。でもやっぱ端っこにふれただけで、もういい、もういいと早く自分の殻に閉じこもりたくなってしょうがないような衝動にかられる。これはなんなんだろうなあ。しかしまあ、はっとぐっとしたまぶたが180度開くような驚きや気づきを、限りなくささやかに、静かに、そのままに見せてくれるというところが否応もなく惹かれてしまうのだ。アートお何が魅力でおもろしいかと言えば一番はまあそうゆところなのだ。

はじめの展示室で見た『地上はどんなところだったか』という作品は、ガラスケースの中に鑑賞者が入ることができる。ガラスケースに入るというと、藤本由紀夫さんの落ち葉が敷き詰められた作品が印象強い。ただこの神奈川県立近代美術館のガラスケースの部分は普段は展示壁でうめられていて、倉庫代わりになっているらしい。だから、美術館側としては裏を見せることとなっているらしい。会場内にあかりなく、作品として展示されている電球たちの存在をひそやかに放つ光のみ。ガラスケース内にも外にも、やわらかな風船が点在しゆらいでいる。花柄の布、小さなビン、水、枕のように小さくふんわり折られた布、光、といったもので構成された作品が一部屋10以上ある。暗やみの中、多くの人がその部屋を行きかい、ガラスケースの中にさえもそれぞれに作品をじっくり見ている人たちがいる。内藤礼の作品は個人や少人数で見て行くのがいいものと思うけど、人がたくさんいるということにこの作家の人気や人の関心がわかり、またここにいる人たちみんな何を考えているんだろうろ思う事もでき、私もその中の一人なんだーと思うとまた面白くなるとこがある。人が熱心に何かに見入り、考えているような光景はこのような場でつよく作品と人とがかかわりあっていくようにも見える。花柄の布にはちょっと意外だったが、アーティストトークで、それらをいとおしく思ったという発言があり、それは納得がいくようであり、そのいとおしさという言葉の使い方や思い方にまたいちだんと興味を持った。いやーしかし人気あるなあ。


レベッカ・ホルンは今回の展示情報ではじめて知ったが、HPなどで見るヴィジュアルからしてそそられないわけがない。相当興味を持たせられる。そこで展示を見に行くと、一つ目の作品からしてどっわーと、うわこれはすごいっと目をキラキラさせて嬉しくてついかぶりつきたくなるような衝動を抑えなければならなくなる。

ハイ今日はここまで。集中力が続かないわたしだめだー。昨日は12時から17時過ぎまで美術館にいてそれからTOEIC講座へ向かうも上野で地下鉄からJRの乗り換えをとんだほうに間違えたのかなんなのかなぜかJR御徒町にでたという。数分遅刻したぜ。そして会話がすらすらできる人たちがリーディングでミスするのがふしぎ。私なんか簡単な会話の聞きとりもぜんぜんだめだし、単語の意味もわからないことばかりだけど、これはこの感じだから答えはこれだなーでいける。若い女の子はみなリーディングはできてるかんじがした。まあべつにTOEIC受けないんだけど。