液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

Flickerに長野で撮った写真をアップしました。教習所のおもひでであり、自然のでっかさにほがーと大口開けて感心して駆り立てられた思いの記録。よかったらどうぞ〜。長野いいな、アルプスいいな、住みたいな。あとになればいい思い出がよみがえりやすいけど、つらいことも沢山あったよなぁ…。http://www.flickr.com/photos/39347284@N07/sets/72157623961057767/




見つけてびっくり。聴いてびっくりというか、スローモーション的になぐられるその頬の感触。羅針盤によるロビンソン。やけに聴いたことある感じのする曲を、歌詞を、山本さんが歌っているこの地面がぐらぐらするよなかんじ。もう結構前かなトリビュートだかが発売されたのは。そのとき、へーどんななんだろうと思ったのは覚えてるけど、うわ、こんなとは。やっぱりすごいな山本さんのうたは。なんかこれ…葬儀場で流れてそうなかんじだなと思ったり(流れててほしいという願望?)、全然記憶もないのに目もあいてないような赤ん坊のころに聞いてたような気がしたり、非日常的な場面がするし、もってかれる曲になってるなあ。原始的なものに遭遇してる感じが。羅針盤の曲って何度聞いても心地よいようでいて慣れないぐあいがいすわりつづける。でもやっぱすごくいいな羅針盤。散歩日和に墓場でピクニックみたいなかんじだな〜(そうゆう曲がキセルにある)



まえっからあまり現代小説(今生きてる人が書いてる作品、というかんじで私は言ってます)を読まないのだけど、母からすすめられて乃南アサの『いつか陽のあたる場所で』という作品をよんだ。なんでも私に似て主人公がよく泣くからと…。母と姉が昔から乃南アサをよく読んでいるから家にはいくつも作品があると思うけど、私は一度も読んだ事がなく。

そこでなんであんまり現代小説を読まないのか、それより昔の時代の方を好んで読むのか考えてみた。たぶん前にも考えてたな。現代小説は舞台が現代で、だから私がしてる現在の生活と様式もほぼ同じで、してなくても私が現在のものとして知ってて想像できて、つまり自分と現在と地続きみたいなもので、そうゆうのがいやなのだ。現代の人間が現代で生きてるのを見るのがあんましすきじゃない。それは前からわかってたけど、ああそうかつまり私は小説読んで現実逃避してるんだなあとよくわかった。ついでに小説でうまく話が終息していくような、結局人の幸せ見るような物語とか読むと腹がたってくる、つまり人の幸せ見るのはむかつくというとこもよくわかった…。

ここ数年、外国人作家のものをよんで楽しいひとつはイメージで日本の土地や生活様式から離れられるからだし、そこに時代が今より数十年前という時代の違いが加われば(80年代でも十分だったりするんだけど)より一層イメージわかして想像して楽しむことができる。夏目漱石の作品も実はこの今とはかなり違う生活様式や言葉遣いや風景を想像していくところにすごく面白みを感じて読んでいるとこがある。まあそこでそれだけその世界に入っていけることになる、そこの作者の力量もあらわれてると思うけど。カフカとかカミュとかも、異国の土地という感じがそそられる大きなひとつだ。ロシアもそうだし、アメリカでさえそうだ。

もちろんそれらが一番でないし、それらで読めるってことは全体がうまいから面白いからということだし、同時に物語や登場人物に思いをよせていってなかったら好きにならないと思うけど、現代小説を読むのには積極的になれなくて昔の時代の作品読むほうに傾いてるのは現実見るの避けてるのかなーという見方も完全否定はできないなあ。ほほう。むらかみはるきの作品はたいがいあんま日常的じゃない場面がよく出てくるし、出来事もそうだからだいぶ読めるのかなと思うけど、でもやっぱ80.90年代の作品がすきで、私は86年生まれだが90年代に関しても一般社会のイメージをもつには粒子のあらい映像でふりかえる世界のかんじで、そこは想像の余地があったりする。でもそれもむらかみはるきだから可能なのかな。井戸とか青山のバーとかが私はすき。

そうかそうか、いかに小説を読むのにイメージすること、イメージが要をなしてるのかがわかった。20歳超えていろいろ小説を読むようになったとはいえまだまだだ。でも、これは!と思う作家に出会えるとひどくたのしくて、その世界にいりびたくなる。それを覚えた今は小説がいかにすごいものかとりあえずわかるようになった。

そんで今はカポーティの『遠い声 遠い部屋』と『草の竪琴』を読んだ。どの登場人物もみんな人間と納得できるような何かを隠して生きていくための卑しさや汚さやひねくれや必死さをもちそなえていて、それを捉える視点は決して批判するだけの厳しいものだけでなくどんなに嫌な人間にも悲哀のまなざしがそえられていて、純粋さがそこに介入するも、その効果はひどく空想的世界で、それをわきまえている視点にまたものがなしい現実味があって、そして様々な人間が描かれながらもみなひとつの同じ人間として見ていく空を飛ぶものからの視点がカポーティにははっきりあるように思う。わきまえている視点というのは年をいくつかとれば分かるようになるものとして人は持ちうるのかもしれないけど、普段は捨てられてるように思う。そのことをハッキリと認識している視点をもちつづけていることが、カポーティの魅力であって、読みたくさせられるとこで、どうしようもなくなるとこだと思う。

また、アメリカというでかい国に息する少年にたいして、どうしてこんなにも気持ちをよせてしまうものかと読んでてふしぎになる。遠く離れた違う言語を喋る人間が抱えるものに対して、こんなにも気持ちがなびくものなんだなという発見は、小さいころから絵本でさえも好きでなくて読書もめったにせず、他の方法でもそうゆうことを知らず外国にも興味さえなかったわたしには、未だに驚きがともなっている。

ついでに深夜『ティファニーで朝食を』をTVでやってたので見たけど、おお、たしかに別物だ。ラストにしろキャラクターの肉付けにしろ、へんに中途半端になってないのが救いのような。でも時々原作ままのようなセリフがあるとなんか嫌だった。4秒あれば出ていけるでしょ?2秒でドアまで行って、みたいなセリフの。『ティファニーで朝食を』という言葉から受けるイメージは圧倒的に映画のほうの、かわいくて華やかみたいなイメージがまったく知らないままにあったんだけど、原作ぜんぜん違うのだから、ものごとなにがあるかわからない。私はむらかみはるき訳を読んでいるけど、静かにいい。