液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

フリッカーから貼り付けるをようやく学んだ…。そうかそうゆうことだったのか。おそかった。まあいいか。これで不満感も解消。でもはてなの画質がごそっと落ちるかんじも、ふるぼけたテープみたいな、スネオヘアーとかキセルとかのインディーズ時代の音の特別良くないような環境でとられた音源みたいなかんじになってわるくないと思う時もあるんだけど。





羅針盤のロビンソンが頭をめぐってしかたがないこのごろ。やっぱり羅針盤すごいね、とひとりごと続発。一枚しかCD持ってないのでそれ聴いたりして、この魅力の具合はなんなのかと思うとまあ簡単な一言で言えるものではあいかわらずない。これが万人に受け入れられるものかどうかと考えるとよくわからないけど、好きとこころが動いた人には大きなちからを及ばしていそうだし、かといって奇妙さがあるので身震いを起こす人もいそうとか思うし、ていうか私自身はこの両方?とか思うんだけど、でもなんか90年代のうそっぽい人のにぎわうはなやかな街の通りのなかで流れててもよさそう、で、それがテレビドラマの1シーンみたいな。そうゆう大衆にうけいれられそうな感じももよおさせる、きらきらした流れる川のまぶしさみたいなメロディとひっかかりを感じさせる繊細な歌声があるのが強力だなあと思うんだけど、そうか強力すぎるのかも。木工用ボンドじゃなくてなんでもくっつけちゃいます的な黄色くて妙な糸ひいちゃうようなやっかいな接着剤みたいなかんじかもしれない。それにたぶんメロディもきれいすぎる。きれいの度合いがちょっとちがう、売れる音楽というとことはやっぱり音を鳴らしてる域がちがうということかな…(どっちがいい悪いということを言ってるんでなく)

私はこの山本さんの歌とギターがすごく好きなんだが、このすき具合はシロップのいがらしさんと同じくらい私にうれうれとした気持ちをもたらす。ギターのきれいさと、メロディの流れていくすばらしさと、歌詞の言葉自体そのものと指し示そうとするものと、それにのっかる声で曲をまるめこめる全体と、それとやっぱりそこに他の音の加わりが過不足なく充実していることが両者には言えるのではないかと今かんがえてみた。まあほかにもそれら持ち備えてると思うすきな人はいるけどもとりあえず絞って書いてみた。

そしてそこからとんでシロップについて思うところ、なんていうかすんごくあたりまえなんだけど音源で聴く声や音っていうのは初めて聴いたときからまったくなんもかわらなくて、音源かけると変わらない声がそこにあって、それと現在の自分を比べた時、いかに時間がたったのか、自分はその音源の時代から時間距離として遠く離れたところにきたのかがよおくわかる。COPYは特にわかりやすく声が若く、みずみずしく聴こえる(以降のものと比べると音質がよくない感じとも言える、クリアではないがゆえの澄みぐあいがあると思う、って、それはMDだから?でもここでは私のなかにおける事柄を語るのでそのことに支障、問題はないと思う)私は最初っからこのCOPYが一番好きで一番よく聴いているから一番体に染みついてる。だから、私がすきなシロップの音の一番の理想像はこのアルバムCOPYということになってると思う。このアルバムの声がすきで音がすきで、それでシロップをすきとしてきたようなもんかも。まあどの曲もたいがい好きなんだけど。

なんか話がそれていきそうだ…。なにをいいたいかというと、変わらない声と音がそこに、私の目の前にはあるんだけど、それを聴いて思い描くことに違いが、変化が生じている、私に変化を感じる、ということによってああ私年取ったんだなぁ年月流れたんだなぁということの事実確認がはっきりと示された。それはぽっかりとパワーポイント使って壁に投影された統計結果としてグラフで示されたのを会議室の椅子に座ってながめる一人として見たみたいに外部から提示されたもののようなのだ。これが大きい。変わらないものに対しての想いのよせ方に年をとったことで感じる違い。年をとって、曲をつくったいがらっさんの年齢にきっと近付いた。10代で見ていた感じていた歌詞に間違いはないと思うし今でもその見方がなくなったわけではないんだけど、24で見る歌詞は、より冷静に、より痛切に見てしまうと思った。10代では感じきれなかった開けていなかったとこから、より視界が開けたとこからじろりじろりと見ている感じ。まぶたに切り込みいれられて開いたかんじのような。

いい歌、すきになる歌というのは自分がその歌詞といいキョリを持ててることではないかと思う。まあ音楽に限らずそうか。他人事なのに、自分の中にうまくそれが組み込まれていくことができたとき、それに対して思いをいだく。他人事という自分とは関わりを持っていないはずのものが何かしらの作用をもってして一面を保ちながらも部分的に違う骨組に変換できる要素をもってこちらに入ってくる、みたいな?微妙に言い回しがなってないような気もする…。そしてそれが簡単なことではなく力量、才能、経験、努力とか、なんかそうゆうものによる。そしてそれらを見て色んな人間がいるんだなぁとか世界を知れたりする。

話を戻すと。私は相変わらずCOPYという10曲からなるアルバムが大好きで、聴いてはむはぁーと10代のころの色んな思いもよみがえったり続いてたり、変わらず同じところにいちいち感動して、更に現在から眺める視点もあって、現在から過去の曲に対して想像をめぐらし、そして現在から現在へ思いをはべらせていく。そうやって頭の中でなぞっていくささやかな行為には、妙に感触があるというか、指で糸をはってるような触れることのできているリアルさというか、現実味がある。あたまん中にぐるぐるヘビのうずまき状に蓄積された糸があって、このアルバムを聴く度にそれをほどいてはもどす作業をしているのかも。記憶というより時間をたどるようなもの。それはなにより頼りがいのある糸かもしれない。

なんかすごくばくぜんとした話のようで書いてて不安にもなるんだが、この一つの音楽作品をめぐる私のやりとりというのは、ひじょうに重要なとこを持ってる気がして、それは15の時に聴き始めてしまった以上さけられない事態のことで、繰り返す時間の経過の中でその糸はとてもしっかり結われてきているんだ、という感覚がある。まあそんなようなことだ!かけた!

つけくわえ。なんか私はむかしから歌詞のことについて触れない、避けるようなとこがある気がするのだけど、それは自分の中に入れてしまってるからかも。歌詞について形容するのはむずかしいなと思ってしまう。こわい。びびりとか。歌詞を形容してしまうと世界がつまんなくなっちゃうような、限定されちゃうかんじがするのかなー。だから昔も雑誌とかでそうゆう文句的なもの見るとなあんか嫌悪感があって。でもまあ必要でもあるものなのだろう。




ついにおおげさに部屋の壁をぶっこわしてしまった。中の資材がぽろぽろと。ひどく怒られる。親に言わせてはいけないようなことをまたいくらか言わせてしまう。いくつかの悪い事象が重なってしまうとこころが持ちこらえられなくなってしまう。どのう袋がどんどん積み上げられてくるのだが、それを仮にも支えてた地面が落とし穴かのようにやぶれひらいてどのう袋ズザザーって落ちてきてしまう感じ。どのう袋がなんで浮かんできたかと思えばドイト行って麻のどのう袋ずっと見てからだな…。そしてそこで大きめパネルが二枚購入され壁に貼られたのだけど、ドアあけて真正面のとこだからなんだか入った瞬間ふしぎな違和感がうかぶ。