ははーん、そうゆうことだったのかも!と過去のずっとぶれてぼやけっぱなしだった点にようやく焦点がさだまってはっきりとした姿かたちになったような感じ。期間が長かったぶん、そのあんまりにもすっきりしたのに驚きとか、感動とか、すくない。とても納得できるというか、室内から窓のガラスを通して青空ぼーと見てるような客観さでもって受け入れられることだったから、なんかすごくあたりまえのことを見たみたいなかんじなのだ。

youtubeでシロップの動画見てみたら、翌日というシロップの一番最初に出したCDに入ってる曲のPVがある。これはなんだ?と思って見てみたら、うわーすごくいいじゃないか!安上がりなかんじだけど、そうゆうほうがしっくりくる、妙にいろいろやってるようなほうがシロップには違和感を感じるし。しかしいがらっさん痩せたのかひと周り小さくなって若々しく見えるような感じで、背景がはればれしいのもあってかとても元気そうというか楽しそうというか、すごくいいかんじ。

と、重要なのは映像のなかみでなくて、まず聴こえた最初の音で、あーフリースロウの時とギターの音の鳴らし方が変わってる…(詳しい言い方がわからない)と思った。(でも私が見てたライブのときすでにこうやってたかもともおぼろげに思う)そう気付いて思ったとき、変わってるということへの単純な目にゴミが入ったような違和感と、もうひとつ、嫌な顔をするような、こころの中でやだなーなんでかえちゃうんだろうという風なじめっとした思いがうかんだ。という自分に気付いたとき、はっとした。そっか、そういうことか、って。

私がそのむかしシロップに対して、昔あった曲を改めてCDに入れる時にいくらかでもアレンジされてあることや、ライブで音がちゃんと鳴ってないこと、佐藤さんがいなくなったことに対して過剰に強く反応していやがって許せなかったのは、私が変わらないものを固執してもとめていたからなんじゃないか?と思った。ひとつしかない正解のまさにそれとは言えないけど、今の時点での自分の見解としてこれは納得できるものだと思う。当時から他のバンドにはそんな思わないのになんでシロップにだけこんなに強く批判的精神をもってしまうのか自分でもはてな?と思ってはいたけど、単にそうゆうものとして片づけてた。

でもなんか今からふりかえると自分をこうやって見ることができる。シロップはやっぱり特別で、自分で見つけて発見できて気付くことができて感動して言葉の意味や使いかたさえ知ることができた、与えられた対象で、その発見の時と、自分の生き方の転機みたいなものの時期が偶然にも続きながら重なっていて、その結果シロップに私のありったけの色んな思いが投影されたんだろうと見れる。他によりかからず見捨てたぶん、ぜんぶが注がれて傾いた。私にとって唯一のものだっと思う。だからそれは、それだけは変わらないものでいてほしかったんだと思う。

自分でも自分の思いをはかり知れなくて、自分の気持ちを読みとく余裕も力量もなくて、誰かに説明する言葉も伝える手段もなくて、まわりから色んなものが消えていくようなからっぽのまま戸惑っていた私にとって、まだそのぐるぐるしたなかに入る前に見つけられた驚きに満ちた絶対的なもの、それはCDでありMDであり、それらがそのものとしてある以上、同じ音をならしつづけてくれる変わらないで聴かせてくれる安住の地のような対象であって、それにしっかりしがみついていたんだろうな、なんて思うわけだ。学校のクラスの人たちも、先生も、親も、自分もわからなくて自分が何かんがえてんだかわかりもしない中で、他にどこにもなんにも世界がない中で、固執してシロップには変わらないものであることをもとめてた。変わることがすーーんごく許せなかったんだろうなぁ。変わっちゃだめだだめだ!!って、必死にせきとめてたのかもしれない。いやはやいろんなもの押しつけてたんだなーと苦笑いのきぶん。それはたまたまシロップだったとも言えるかもしれない。

これが翌日のPV見て思ったことだ。最初聞いて、む…、と思った気持ちはむかしと一緒なわけだ。おんなじ自分だわ。でも、もっかいと思ってまた聴いたら、ただあーすごくいいなあっていう嬉しさがたちあがってて、あれ?なにがいやと思ったんだっけ?ってなくらいになっちゃってて、なんかむかしの自分のやっきになってたことが笑えてしまった。いやまあ必死だったのだ。変わらないものをもとめることに必死になって、それであの時期をやりくりできたんだろうと思うし。つじつまあわせ。まー今から考えるとひどい話だって気もしちゃう。しょうがないな。

それでけっきょくわたしはどうしたんだろうか。結局、変わらないものをもとめて、ライブに行かなくなって新譜も聴かないで情報も得なくなって、変わらないだいすきなままの音源を聴き続けるだけになって。私はついに変わらないものを選んだのか?まあそれだけじゃないとは思うんだけど。生きてる限りシロップとの問答はつづきそうだ…と思う。


おすすめ

2分12〜24秒あたりが特にすき。お尻きれいだな。アレンジかわってても私のすきないがらっさんのギターの音がまさに鳴ってるのでうれしい。声もよい。なんかこれも葬儀場でかかってそうなかんじ、とか思ってしまう。



映画化されるらしいカズオ・イシグロ原作の『Never Let Me Go』(わたしを離さないで)のトミー役の男の子が映画『BOY A』の主役やってた男の子なんだな!BOY Aという作品全体がすきで、この主役の子が繊細でいて年頃の少年らしいうつろいを見せるのがすごくよくって(かわいい)、あの子ならトミー役もなんかあいそう。てか少し似た感じかもと思う。今わたしはまたこの原作を読んでいるところ。過去をどんぶらこっこと語っていくところが心地よかったりする。
『BOY A』でおもいだした。この作品を知ったのはそういえば朝日で沢木耕太郎が月一くらいでしている映画評からだった。なんかこれは毎週金曜の夕刊にある評論家とかの一般的なかんじの映画評とは違って、沢木耕太郎が書くということに重点がいってるかんじで、たしかにちゃんとストーリーの説明や評価をくだしたりしてるんだけど、それだけじゃない書き手による読ませる文章になっているとこがやっぱちがう。それで私はいつもこれがたのしみで…。でも正確に毎月のいつ掲載とかは特別紙面に書かれてないのもあって、いつも忘れてた頃に朝刊めくってると出くわすというかんじ。で、たぶんその間隔として月一くらいかな?という私の感覚。
今月は『パーマネント野ばら』について書かれてたんだが、やっぱ文章うまいなーうまいなーと思うし、2.3回読み返したりする。読んでると、見てみたくなるぐあいにひっぱるというか、もってくのがまずうまい。隠すべきとこは隠して、いかにその部分を言い表すかというとこで、スマートに、それでいてひそやかに語るところがにくい。部分的な面だけでなく、はじまりからおわりまで、映画作品に対する筆者の視点とわきまえた範囲での作品説明とそしてそっから読者に対する提示といったような流れがいつもうまいなぁ〜と私の新聞スクラップノートいきになることたいがい。
前に図書館で沢木耕太郎の本(エッセイかな)を一冊借りて読んだこともあるけど、やっぱりうまかった。なんだろうなあ、流れに個人の雰囲気があって、それが本人をよく知らなくても面白みを感じるのかなぁ。一度テレビで本人を見たことあるけど、その声の感じが印象的に残ってて、文章読む時もついその声がうかんでる気がする。冷静でおだやかなかんじ。おおそれは私の好みでないか…。まあそれはいいとして、自分でいいなぁとか好きだなぁとか思う文章に出くわしてしまうと、私もこんなふうにかけたらなあ…って思ってしまうのは対象が変われどおんなじことだ。あこがれる、という気持ちはいろんなことに作用され作用するんだな。ふむふむ