液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


いやもうなんだかずいぶん書いてなかった…。気持ちはいともかんたんに離れそっぽを向いてしまうものだ。私はひじょうな飽き性だしかな。いやなんかそれとも違うのだけど。

ひたすらなにもない毎日をたらたらと見送っているような日々の中にいてまたもやなんにもなくなってしまった、、という感覚の中、まあわりあい変な気分に転調することなく過ごせつつある今日この頃かな…。頭が働いていないというか、何も考えていないというか、大きな恐怖や不安や焦りの渦にとりこまれず、かといって何かに前向きであったり行動的であったりするのでもなく、ノーマルというようなちがうような、なにでもない、なにでもないことに対して平穏でいられているというちょっと自分でもぽかんとどう対応していいものかよくわからない状態のままというようなかんじをミシンで布をおくるみたいに日々をおくっているかんじ。日々というのが布で私はミシンを動かしているのだけど、日々というものをむこうへむこうへ、次に来るものもとどこおりなくどんどん向こうへ送っているのをただ見ているような視点のような。何か言ってるようで何も言ってないなこれはきっと…。

たしか5月に2回くらい悪い状態をひきおこして(たしかそのときに壁をぶちこわしたような、、親に対して恩を仇で返すようなものだが…)、病院に一年ぶりに行って自分でカウセンリング再開するかは考えなさいと言われ、とにかく先生からは強くあなたは自分に向き合うことから逃げていると言われ、安い薬を出してもらい、6月に入ってちょこちょこ自分をコントロールできないことがあり、何カ月も前からずっと一番に楽しみにしていたVincent Atmicusのライブを当日行けなくなる事態になってしまってそのことが、そんな自分がショックで、母に促され診察にまた行ってカウンセリングを再開する意思をつげ、今週カウンセリングにも行った。先生には再度、自分と向き合うことから逃げてはいけないそれはつらいことだけどと言われ(それはカウンセリングすること、つづけていくこと)、自分で自分に向き合うことから逃げているのか?と問いかける。つうか自分に向き合うっていったいなに?どういうこと?という疑問に到達してしまう。く…。

でも先生がそのあとにつづけて、だから先のことも何も考えられないんじゃない?と言い、ああそうゆうことかもかもしれないと思った。自分では自分に向き合えていないとは、そこまで考えてなかったし、母からもそうとは言われていなかったから、先生からの発言は痛くかんじるところがあったし、カウンセリングという長いスパンで見て取り組んでいかなければならないものに対してすぐにひるんでしまい、すぐにわかりやすいこたえが得られないと不安になってしまう、苛立ってしまう、無意味さを思ってしまう私にはそれを簡単にまっこうから指摘されているようで、自分の逃げ回るばかりの駄目さ具合というのを認めないわけにはいかなかった。

嘆いているばかりではいけないと言われた。そう私は気づくとどんどん嘆くばかりになってしまっていってて、それが自分でも卑しくて嫌なのに、でも嘆くことを止められずにいて。そうやってどんどん外との壁が高く分厚くなって、自分が異物になって人ごみの中にいると自分だけ場違いの人間に感じられていく。みんなは同じなのに、私だけちがう、という色の違いを見てしまう。人から白い目で見られ、後ろ指さされているイメージがふくらんでしまい、現実にそんなことありえないと理屈ではわかっても、イメージに圧迫され苦しめられてしまい気がへんになる。イメージの力は圧倒的だ、と思う。

カウンセリングをつづけることで何が変わるのか?ということを即刻考え求めてしまう私にとって、いつまで続けるのかわからない、変化が出るかどうかもわからないということは大きな苦痛で、またそれを自分がちゃんと続けられるのかと考えるといやになる。これが自分に向き合うことなのか?と思う。何が悪いのか、何が足りないのか、なにをすべきで何が正しいことなのか。直にそうゆうことばかり考えてしまう。よくなさそうと思いつつ、かたまった思考をもみほぐせない。

以前担当してもらってた心理士の方は休暇にはいってしまっているので、また仕切り直しという感じで新しい人になり、なんかまためんどくさいな…とつい思ってしまうんだが、しょうがない。今自分で考えてるのは、社会との付き合いがうまくできないことと、母との関係ということ、その二つがからみあってみょうちくりんな世界をつくりあげてきたということのように思うので、まあ今回は主にその辺りからの話を…。でも話しながらどんどんそれたり、何話してたんだかわすれたり、自分でもよくわからない言葉にならないこともいろいろあったり、これうん千円の価値ある話なんだろうかと考えたり、ああいやだなあと思いながらとりあえずいやなことから逃げない訓練の一つと思うようにする。



このあいだ鬼子母神の手創り市を駆け足ながら見に行ったのもあってくだらん手芸ちくちくと並行してケンブリッジ英文法のテキストをあいかわらずのマイペースでちょこちょこやることができている。どちらも日の気分でむかえる日とだめだめで寝続ける日と…。図書館で刺しゅうの本借りてもぜんぜん刺しゅうやらないし、まあ見てるだけで楽しいんだけど。どっちも意味がないようなマイペースで毎日後悔と落胆するも進歩的発展をとげられず。道が開けてないなあ。


BSでイングマール・ベルイマンの『ある結婚の風景』というそのむかしスウェーデンで放送されたテレビドラマ6話ぶんを毎日録画しといて数日にかけて見た。放送された当時、スウェーデンで離婚がふえたというほどの人気(?)でそのあとベルイマンが編集して劇場公開版までつくられたとか。たしかにこりゃすごいおもしろい。30年以上前の作品でもとても斬新さをかんじた。

ほとんどすべてがある夫婦の会話。小さな家の中で繰り返される憎しみと愛しさをなげかわす夫婦がどこか滑稽に見えたが、実態はまあそういうものなのかな。妙なものだなぁ。結婚をむすぶという関係、男、女、人間、どれもを見れてしまうようなかんじ。

見ているとなんとなく眠くなるんだけど(実際なんども寝た)でも絶対ちゃんとつづきがみたくなるし、またなんとなくもっかい見たいと思わされるあたりが私の中のベルイマンだなーと思った。会話にどうしようもない魅力がある。なんか、見捨てられないんだよな、登場人物たちが。


車の免許をとって2カ月が過ぎた。週に1回はなんとか運転。一人で乗る気には未だなれず。近所以外も少し運転したり、駐車もサイドミラーをさげて時間かけてなんとかスムーズっぽくなってきた。でもそれは誰かに一応外出てもらってるからの安心もある。高速も一度乗り(首都高に少し入った)、都内の道もいったけど都内はごみごみしてて停車してるのも多くてまだこわいな。

しかし教習所でやってたときはほんとにいつもどどど緊張してたの考えると、きもちはだいぶやわらいできた。体もかたまらなくなって、視線のもちかたも焦らずしっかりになったような。晴れてる日を見ると、車日和だなーとつい考えてしまうのは教習所では晴れだととにかくすばらしいアルプス山脈がよく見えてうれしくなったからで(好きな先生だとなおうれし)、はっと気づいていやいやこんな天気の中、排気ガス出してよくないだろ…となぜか善良ぶる自分がいる。しかし私は運転は人一倍気をつけねばいけない気がする。視界がせまくなりがちとも言われたし、とにかくそういわれたことを忘れないにようしてないと。まだまだこわさたくさん。狭いとこでは自分がどう動くかとか、まだ未知の部分も多い。