おばの家にもえらわれていった猫二匹が、おばが海外旅行にいくってんで2週間うちであずかることに。まだ生まれて一歳にもなっていないから、大人ほどの体格にはなっていないけど、猫が四匹いる、という実在感はじゅうぶんに家にあふれている。しかしやっぱり親子の血は忘れてしまってるよなぁ…。母猫ちびは臆病というか、繊細というか、壁がつよいのか、すっかり居間のほうには姿を見せずわたしの部屋のほうにいずっぱり。餌すらそっちでしか食べようとしないから頑固だ。に、にるなよ…。

もらわれていって、私が命名していた名前とはかわったのだが、そっちだとどっちがどっちかよくわからなくなるので、ありょーしゃ、かーにゃ、と好きな名前で呼んでいる。猫の名前というのは呼んでいるとなぜか常々レパートリーがふえていくもので、みるくにしても、みるーであったり、みーこであったり、みーたろう、みるみる、みーちゃん、と、「み」だけがあればなんでもおかまいなしになる。オスなんだけど、今までの猫がみなメスなのと、かわいい顔につられてどうしてもオス的な名前になりにくい。なのでときどき自分に対してこいつはオスということを指し示すためかのように、みーたろうが出てくるのだと思う。いつの時代までたろうという名前は男児もしくは人の象徴的名前としてあつかわれるんだろうか。


前々からよんでみようかどうしようかまあまだいいかいつかいつか…とうつろな気持ちでさけてきた三島由紀夫を読んでみることに。まあまあおもしろいかな…。でも久々にわからんしらん単語がたくさん出てくるものを読むなぁと。漱石の作品にもいまや全然聞かない単語がよくあった。
三島作品には注釈がぜんぜんないので、電子辞書でひきながら読んでみる。まぁひいてみると文章の前後の描写や漢字の意味からくみとっていけばなんとなく理解できるんじゃ?と思うものもあるんだけど、それはひいたから言えるだけで、やはりまったく知らない単語に出くわしていちいち想像力働かせていく能力は私にはないなぁとおもうところ。しかしふしぎだ、なぜ今じゃ全然使われていないむずかしい単語がこんなにたくさんあるのかと。ということには、昔はなくて今にある単語もよくあるということなのか?ひいてみると、いい単語じゃないかーと思うものもあるんだけど。
進度ゆっくり。