液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

なんか、も、どんどんだめになっていくような、それしかないような、な、まいにちまいにち。まあそれでも、7月中に数回危機的具合が顔をだすも、それ以降、8月に入ってはしゃりしゃりとかき氷の氷が食べ進むにつれて順調にシロップにとけていくみたいな日々にながれこんでいる。それがいいのかわるいのか?どうともいえない。
書こう書こう思いつつも、その書こう書こうの想像の域で終了してしまっていた。恥も何も消失しつつあるというか、なにかどんどん体からぬけていっていて、それは解放されているというのか、避けているというのか、身を隠していこうとしているというのか、目をそむけているというのか、あほうになっているというのか、さてはてどれなのか。
今、キセルのニジムタイヨウというCDを聴いている。これはずっとよく聴いているものの一枚で、おおそうかこれってキセルのインディーズではじめてのCDなんだったなあ。いくつかキセルのCDなどもってるが、この6曲入りのミニアルバムがいちばんいちばん好きだ。全体の均整がとれてる。崩れがなく、聴いていて気をもむことがない。アルバム近未来とかね、きらいじゃないけど、どうしても色々な音を取り入れた曲がはいってくると、最低限の音数で作られたように感じられる曲との落差がはげしくて、アルバムといったような形でつないで聴いていくのはなんかむりやり感をかんじてしまう。ああいまとつぜん思い出した。高校2年のあのころに昼休みに駐輪場で聴いていたなあ。そうして知らない先生に「友達いないの?」とか聞かれたなあ。何回思い出してもこのセリフはおもしろい。当時もむふふと笑った感覚の記憶がある。それがそのまま続いているんだとおもう。ああそうかそのころから聴いているのか。できることなら二人での音作りにはげんでほしいと思ってしまうのだがまあたぶんそれもむりだろうからしょうがない。それにたとえば方舟という曲とかはぴこぴこたくさんしてるけどそれがすごく好きだったりもするし。方舟は歌詞がうまいからなあ。
大学生のいつかに帰り道にこのCDをよく聴いていたせいかそのころのそれが西暦何年で何月かはわからないけど、夜のしっとりした街灯がぽつぽつ並んでいる住宅にはさまれた道の光景と空気感が思い出される。
音楽があるときにみた風景とむすびついていることがある。それは過去の記憶の映像として音ともにあることによってより立体的なふくらみをもって現在というか、常に過去になっていく今にふわりと降り立ってくる。私にとってその一番は、高校に通っていたころ、自転車で片道40分の道のりの中のある一風景にある。それは帰り道で、いつもたいてい高校の駐輪所で自転車をこぎ始める前にMDウォークマンのスイッチをいれることのくりかえしによるもので、いつもたいていは同じ速度で同じ道のりを自転車でこぐわけだから、自転車を走らせていれば常に移動しながらも同じ場所で同じ音楽がかかる。そんななかで、ああこれが無効の日の景色だなぁと思った場所があった。自転車をこぎながら前を見ながら向こうに見える景色に対して耳に流れる無効の日という曲はその場所、そこに見える風景に対する曲であるように実感した。実感したというか、いつもその風景に対してその曲が流れるから、私にとって無効の日というのはこの景色のこと、この景色は無効の日という曲だ、と、単純なイコール関係を持った。そして未だにその無効の日の景色が頭によみがえる。無効の日の景色だ、と思った空虚な感覚がしみついている。そこにはとくになんの意味もない。なんのイメージも言葉も派生しない。あらゆる側面からしてすべて私は16、17歳でとどまっているんじゃないかという不安や戸惑いの感がちらつく。
とまってとまって、もどって。どうなんだろうかと思う。20代になって覚えたことはどんどん簡単に忘れられる。いつか記憶をなくしていくことになったとして、そのときに私を支える記憶はやはり16.17のときのことになるのではないかと、なんとなく思う。大学生の時の様々なことがらもどんどん忘れていっている。それは単純に重要でなく、必要でないからだろうか。どんなに経過しても忘れない。そうゆうものたち。いくつも覚えている高校2年の、16歳の記憶があるのに、そのときの自分の顔かたちは一切わからない。自分のイメージが存在しない。そこに映る他者の顔はいくつもあるのに。どんな髪型で、どんな肉付きで、どんな顔色でどんな表情でどんな顔を持っていたのか、まったくわからない。見たもの、感じたものははっきりあるのに、それを見た、感じた自分自身の物体性がうすく、中身があって外がない、不在感。ちょうど写真の類もいっさいない。自分の確認ができないことに、なぜか不安を覚えるような、でも大きなはっきりした不安でなくて、なんとなくどうでもいいような不安。なんなんだそれは、という疑問程度のもの。
この、不在感というか、覚えていないという事象は17のころにすでに妙だ、へんだ、いやだなぁという感じはもっていて、ショックで、そういうことが、強く覚えている記憶の事象ととても逆行していて、しかしそれらはバラバラのことでなくて、合体されているひとつのものと思うから、一体感がないというか、ちぐはぐなのか、統一を図れないところがもどかしい。なんつうかもうこうこんなにも固執してるとこからして、なんだ、どうしようもないかんじだけど。
忘れない景色、忘れない感情、それらに年を経過してからの自分の思いの解析が混入していく。当時は自分の気持ちを考え出すことなどできる余裕がなく、ただ言葉のない感情が鋭く方向を示していたかんじ。そこに、時を経た自分がそれはこうだったんじゃないかと言葉で侵入する行為はただしいのか?なんにせよ一度行われ判断が下されてしまうと、またそこにがんじがらめになるのかも。それはだって救いかもしれないじゃないか。
誰も助けてくれなかった。同じクラスの人たちも、どの先生も、親も。そうゆう言葉はその時の感情にぴったりくるようで、正しい気がしてしまう。完全な正当性はないにしても、そうゆう状況に陥ったのは事実でないか。おもえばそのころのことを誰にも話したことがない。それは一人で占有されるべきイメージの大群で、言葉に整理されることが拒否されてた感じがするなあと思った。共有の効かないものとして。そこには理解がないように思う。中立さとかもない。私の中の記憶で完結していて、そうして閉じられていて、開けることなど前提でないのかもしれない。言葉ではやはりだめなのだ。そのときに言葉がなかったように。私はそれをひたすら泣いていつまでも泣いて何度も消化していくしないのかもしれない。
でもまあ、だからってそれにすべてをおしつけちゃいけないのだ。


せっかく書きだしたのでまだ書くと。7月にぎりぎりで写美へ古屋誠一の展示を見に行った。2年前にオペラシティであった展示の際にアーティストトークがあってそのときに古屋氏本人が情報をもらしたのでそのときから楽しみにしていた。しかし残念なことに体調を崩されて日本に来ることができず(オーストリア在住)、アーティストトークがなくなったのが残念だった。2年前に本人を目の前にすることができた時の自分の中の高揚感をよくおぼえている。古屋誠一と、べルナール・フォコンが私のもっとも好きな写真家で、ベルナール・フォコンの写真集を初めて目に入れた瞬間にうわっとそこに濁流がそこにとつぜん発生したかのようにひきこまれたように、古屋誠一の写真集を初めて目にしたときにも地球が反転するといったような驚きがあったし、パチンと細胞が死んで生まれ変わるような瞬発力のある発見があった。まあそもそも写真・映像を好むのもあるし写真家というくくりなしにしてもかーなーりー好きな人であることにまちがいない。おもしろいとか思うのと、好きというのとは、まあちがうからなあ。
展示してある写真の選別や配置等は学芸員の形の手にゆだねられたという。感想としてはやっぱり古屋さんの手によって選ばれたもの、配置で見たいなぁというとこもあったけど、でも、本人によらないからこその見方をすることができのだろうと思う。いちばんはじめに妻・クリスティーナさんの死後と判別できる、遺影として飾られているクリスティーナさんの写真がうつされた写真で、これはなんかすごくショック感がつよかった。死んでいるといくらわかっていても写真の中で生きている姿を見ているから、ひどくおどろいてしまったのか。自分でも意外だった。
一番ひきこまれてしまったのは、やはり、クリスティーナさんの写真を、時間をさかのぼってならべられている場所だった。クリスティーナさんは1986年、自殺をする。その3年前くらいからどんどん影をおびた表情をみせていく。古屋さんとしりあったときすでに彼女は自殺未遂をしていたというが、それにしても年をさかのぼっていったときに見える、明るくかわいらしい表情はひどくまぶしく、いとおしさを感じる。けれどまた、死に近づいていった姿にも、そこにしかないような美しさがあって、どうしようもなくひかれる。この一連の時の流れでの見せ方は、古屋さん本人が選んでいたらこうはならなかったのではないかと思った。
メモワールと題して編みつづけてきた写真集も、ついにおわりでその写真集も売ってたんだが、お金なく買えず。5千円くらいだから過去の高いものと比べればやすい。展示会場には過去の自主製作の写真集など含めて展示されててそれが見れたのは良かった。


これが発売された当時(2006か2007年くらい?)、ミューアムショップかどこかで目にしてくぎづけになり(これで古屋さんのことを知った)、今年になってようやく手に入れた。誕生日に無理やり買ってもらった…。

国境を撮った写真もすきだ。

この写真集にはクリスティーネさんがつけていた日記の文章もそえられている。

オペラシティでの展示はこんな風で

まあ整列された写真もいいけど、こうゆう見せ方もひじょうにすき。



まあきょうはこれくらいで…
書いていると想像とだいぶずれていく。なにがかきたかったんだろう。あ、ほんだなほん。