7月の中旬ころにつづいた猛暑のせいでか、まず首にしっしんが現れ、どうじきに妙に活発になっていたあごにきびとともに見てもらうために皮膚科へ行った。そっからひたすら皮膚科がよい。その後、なぜか顔中にしっしんが広がる。もはや、これは、テレビで目にするような怪獣か妖怪か…というレベルにまでいき、自分でももはや鏡を見ないようにするまでに。小さいころからアトピーだなんだで何度も皮膚科に行ってきたが、こんなに顔がひどくなったのははじめて。
前々からときどきなる脂漏性皮膚炎という症状がどかーんと出た模様。つ、つらかった。強い薬をだしてもらっておさまる。先生や看護師さんたちもさすがにかわいそう…と同情な目でみているのがわかった。そこで今度はにきび向けの漢方薬にシフトするも、ぬおお、この最近の暑さでまたなんか生え際や小鼻、メガネのあたるあたりといった汗かきやすい場所がおかしなことになってきた。しかも妙に治りの悪かったニキビも湿しんに変化した。なのでまた皮膚科へ…。
いったんこれで治ったとうれうれとしていたものの、それは薬でおさえてたんであって、治ったんじゃないと言われ、そうかと納得。つぎは持続させるの考えるからまた来週きんさいとのこと。
ここの先生言うことこわいから、びびりの私はときに泣きそうになるんだが、昨日はごきげんうるわしいようで、なぜか早々突然持ってた日傘の柄が木素材なところをいいねと言われる。プラスチックよりぜんぜんいいよ。って。ああたしかにプラスチックは皮膚にもわるいからなぁ。わたしは指先の万年荒れもあって、ゴム素材もビニール素材もいかんいかんと言われる。そうゆう素材は日常にあふれてるが。
その持っていた日傘はたしか大学一回生のころに買ったっけなぁと思いだす。UV加工などなくて、まあスーパー(に入ってた雑貨屋)で1800円くらいで買ったようなものだからそんなもんと思うんだけど、ひじょーにナチュラルなかんじのもので、とりあえず強い日差しをさけるため布一枚はさむだけでも違うという程度の効果があればいいと思っている私にはじゅうぶん。でも結局大学生のころはめんどくさくてあんまり使わなかったんじゃないかなぁと思いかえす。日傘という荷物かさばるかんじがいただけなかった。自転車のるんじゃ余計に。そんなもんいらんっとなれた若さというか、わりきった潔さというか、そのころにしかなかったような考え方のことをすこしなつかしく思いだした。



テレビで放送されたジブリの『ハウルの動く城』を録画して2回見た。はじめてテレビで見たときからこれは『魔女の宅急便』を思い起こす高揚感があって、たった一言で戦争がおわりにされたりするとこに、ん?と思うのもぜんぜん許せる要素がたくさんあって、結構すきだ。
一番好きになったところは、主人公ハウルが鳥に変身したときの様子が魔女の宅急便ででてくるある絵の様子と、なぜか私の中では重ね合わさるところ。横顔で、飛んでるといったようなイメージと、あとはハウルが鳥になったときの感じがカラスっぽい感じもあるからかな。この絵というのは、ウルスラという名前らしい(劇中では名前が出てこない)キキが森の中で出会った女の子が描いてる絵で、星空をペガサスみたいな動物が駆けていてその横に人の横顔があって、その横顔がなんかハウルとすごくリンクする。ジブリでも色々と飛んだり走ったりする道具、動物が出てくるけど、人間がそのまま鳥のように空にあがって移動できるというイメージがつながるのかも。
あとは街の光景、人の群れを上から下へと見下ろす視点に通じるのがあるのとか(ハウルでいうと、ハウルとソフィーがであって空を歩くシーン、ここの音楽とあいまった高揚感はすごい)、港町の風景が出てくるところとか(船、カモメ、そこで働く男たちの容姿、に思わずぐっとくる)、乗り物に乗ったときに上から見おろすひとつの街の夜景とか(知らない街、自分の街、と違いはあるけど)、まあいくつか私に一番しみついてる魔女の宅急便接触をよびかけるようなシーンがハウルにはいくつかある。そもそもどっちも魔法使いが出てくるんだった。
キキというと紺色のワンピースだけど、冒頭で着てるうすいカーキみたいな色のワンピースにうすいピンクベージュ色のエプロンみたいなのを重ねた格好がえらくかわいい。あの微妙な色具合が見なれないかんじで、いつ見てもわっとする。日本を舞台にしてないジブリ作品のふしぎなとこは街並みとか、洋服とか、日本じゃ見ないものなのに(ヨーロッパのかんじ)、喋ってるのは理解できる日本語だし、まあ顔も日本人ぽいし?、するっと身近なものとして受けとっていける。西洋に対するあこがれに傾かない。というのがなんか自分の中ではふしぎなかんじのするとこ。
そんでそっからはじまる物語を見ていると、あ、このセリフ知ってる、という妙な感覚がぽっと生まれせまってくる。私はたぶん10代の一定期間しばらくジブリ作品を見返したりしてなかったと思う。だからそれより前の過去の知らぬうちにきざみこまれた記憶が、あ、このセリフの感じ知ってる、ということになるんだろうな。なんかとつぜん、とおい過去にびゅーっと吹かれて飛んでくみたいなことになる。いつの記憶かも知らないんだけど、ただその記憶というものが連綿とつづいてきた、保持されてきたということが一本の管のように残されていてその管の中をすーーっと時をさかのぼっていくみたいにして後退していくかんじ。時空間を感じるふしぎたいけんと思う。




最近図書館で借りて読んだ本のいくつか。

浮世の画家

浮世の画家

図書館にあるのは初版であった。80年代のものだからややぼろっ。カズオ・イシグロの長編2作目。主人公はやはり過去の記憶をたどろうとする行為を繰り返している。1作目の遠い山並みの光でもそうだったし、この後の作品にも過去の記憶と現在とをたどる形がこの人の作品には多い。しかしこの作品では訳者があとがきで描いていたように、AはBと言った、いやCと言ったんだったかもしれない、しかしやはりBと言ったのだ、という具合に過去の記憶をたどる動作をしつこく繰り返す。しかしやはり、というのはBut thenとのこと。
過去の自分の行いには過ちがあったと、それを現在はきっちり認めている人間だということを大きく見せようとしている祖父という立場をもつ語り手。この語り手の言うことはどこまでが正しいものだろうかと、疑わざるをえない。なんせあやふやな、娘たちからも妙な距離や視線を向けられる、たった一人の独善的な視点からすべてが語られていくのだから。はっきりとしない、あいまいで、どんなものごとにも自分は正面から向き合っているのだという自分を正当している態度はどこかむなしさを覚える。過去に対峙する現在がはらむむなしさというような感覚はカズオ・イシグロのどの作品にも通じるものかもしれない。
私がこの人の作品の一番好きなとこはこの、過去の記憶に向かい合っていくところ。過去の記憶という、ゆりうごかせない事実を現在はどう捉えるのか、というところ。過去にはそのときどきの、そのときにはそうすることしかできなかった、考えられなかった、それを正しいと判断した、もしくはそのような避けられない運命があった、といったものが潜んでいる。その過去を追っていく作業の語り口がまたいいよなあと思う。


夜はやさし(上) (角川文庫)

夜はやさし(上) (角川文庫)

上下巻。アメリカの小説家の作品読んでると、広大な土地の寂莫感がおおきな風に吹かれてやってくるかんじがあって、しめり具合と乾燥具合と、まあちょうどいいのかも…。なんだかかなしい、の雰囲気。がつきまとう。というか、サリンジャーとかカポーティとかではじめてアメリカ小説読んでびっくりした発見が、そうかアメリカ人もかなしいんだな!、という感想で、アメリカ見る目が変わった。まあどれも現代が書かれてる作品じゃないけど。しかしこの発見はかなりでかい。単純というか、すっとんきょうな感想で自分もびっくりだけど、アメリカに対してこうゆうかなしさがあるんだという感覚はなかったんだろうなあ。
グレート・ギャツビィもそうだったか、結構シャキンとキラリと光る刃物でちょん切られたように次に進んでいくかんじがあったりして、ときどきそこで置いていかれそうになるんだけど、上下巻のなかでなんとか慣れた。なんてかなー、なんていっていいのかわからない。ただとてもおもしろく読んだ。こうゆう面白さに大してどうゆう言葉いっていいのかまだよくわからない。


予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

表紙絵がいい。なんかあまったるいなまったるい空気が描かれている町のなかに流れてるような気がして、読んでてもひたすら読み進んでないような、ずっとおなじ太陽のもとにいるような、同じとこをぐるぐるしてんじゃなかろうかという感覚におそわれるんだが、同じく借りた『迷宮の将軍』でも同じことになったし、これはこの人の作品に共通するのかも…。
奇妙なものがたり。やはり語りようがうまいのか、おもしろい。