液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


楽家の個性。演劇や映画と音楽。作曲と即興。空間とグルーブ。私とジャズ。ドラムマガジンフェスに向けての考察です。

10月にピットインであるらしい芳垣安洋 RADMF project(メンバー:芳垣安洋(Ds,Per)曽我大穂(Fl,Har,etc)高良久美子(Vib,Per)Gideon Juckes(Tuba)ほか)という新しいグループのライブへのおそらく芳垣さん本人による言葉。くー、なぜかこう列挙された言葉からこころのなかに躍動さを覚えてしまう。ぜんぜん聴きにいってないのにねぇと思うが。
ドラムマガジンフェス行くのがいいかな?と思ったけど、考察です。ってとこにやられると感じる。考察ってとこがいいよな、うん、と思う。芳垣さんは最近演劇でも色々とやられてるようで、一度見に聴きにいってみたいとも思う。
こうねえ、聴いたことない音であっても、なぜか考えただけでもぞくぞくする、という、魅力、体が知っているんだという、たとえ実際にはお気に召さないことがあったとしても、体がなにかを知ってるというかんじは、ときに太古からの人間の歴史が自分にも息づいているんじゃないかというよな気分になったり。言葉はない音楽でリズムを自分の中にとりこめたとき(自然にあちらから入ってくるともいう)、とかまあよくそうかも。芳垣さんのドラムやらはまあそんなかんじだから好きなんだろう。とか考えてみる。私にとってはそうだ。んでもってきれいなメロディーも好きでほっするのは、現実の現在のためのもののような。
何度も言ってるようだけどそういったふたつ(それ以上)がみごとに同居してるのがヴィンセント・アトミクスかなと、思うのだが。なんだかんだでやっぱ私は好きになる音楽の幅せまいかんじがする。まあ、はじめから限定視野でいちゃいけない。10代のころよりだいぶ衰えたのでは。

ここまで一昨日書いた--------

昨日たまたまそこらにあったのがヴィンセントがはじめてライブビートでたときのMDであったのでかけた。つまり菊地なるよしがまだサックスふいてて、1stアルバムを出してまもないころ。菊地さんのサックスがあることによる部分も大きいとは思うけど、これの録音がひじょうにはつらつとしていて楽しくおもしろいエネルギッシュな色彩に満ちてるかんじがするのは、そうかまだ結成されて間もない時だからなんだな!と思った。なんていうか、このメンバーの方々はみなさんすでに実績があるというか、熟練な技をもったような方々のあつまりであるから、いくら1stアルバムったって、はじめっからうひゃあっと喜ぶ音楽が鳴っていて、だからなんか今までこうゆうふうに考えたことがなかったな…と思った。いかんな。
ものを作り生み出すにおいて、はじめっから完成形があるものではなく、探っていく過程があるということを、つい忘れがち。完成などなく、いつまでも過程ということかもしれない。アート作品だとまだしも、音楽では理解がうすれていたかも。おととい↑の芳垣さんの文章読んだ後だからきづけたのかも。
しかしそう思うとヴィンセントも結構たつんだなあ。わたしは、1stアルバム発売された時にCD屋で聴いたのをわすれていない!そうそうなんかいつのまにか床にころがっていた大学2回生くらいまで使ってたルーズリーフノート。

なんかぼろぼろだけど、ライブビートのシール(絵:吉田戦車)とヴィンセントのステッカーとが貼ってある。ついでにどーもも貼ってあるけど。今見たら自分でおもしろいなあと思えた。ステッカーをもらったころは吉田戦車を知らなかった。でもいつからかビッグコミックで連載がはじまってこんなへんなのを描く人なのかと納得した。




9月14日の品 結構思考錯誤

9月15日の品 はじめはもっと大きかった




なんかなんかでなんかだけど、続けてこうあかるかんじにもりもりなかんじに書けていると、あとでおちこむ。元気みたいな、楽しいみたいな、そうゆう自分に汚さや愚かさを感じてしまう。前から生まれてる思いだけど、テレビ見て笑ったりとか、何かを楽しむとか、そうゆうことを自分なんかがしていいのだろうかいやだめだろうなのにしてしまった、となると、ああおれはもうだめだと熱海の捜査官のじゅんさかさんの言動のようになる。罪悪感がぶわっと後ろから身を広げておそいかかってくる。ももんがみたいかも。罪悪感を持ち、それに従順になれるならいい。ならないのでもっと卑怯だと思う。そういう考え方は更に卑怯だと思う。そう考えたら卑怯はひたすらのびてくだけで、もう卑怯をとびこえてしまうので、思うだけ意味なさげだけど。
卑怯な自分を横目でみながら楽しむことをしている自分。罪悪感というものはいつまで背負っていくんだろうと思うけど、消えなさそうな。だいたいほんとに感じてんのかよ!とつっこまれてもおかしくないのでは。罪悪感と呼べるほどの高尚さもないんじゃないかと、どこか隠れようとしてもいるのでは。
自己肯定することに慣れないのだと思う。ま、それでも最近は随分してる。してしまってる。本当にしていいのか?という思いは消えない消せない、消してしまってはいけないと誰からも言われてるようにも思う。ゆるされない。
私は日々ほとんどの家事をこなすことで、親からいくらかお金をもらって、それで吟味してすきなことにお金を使う。主婦代、みたいなもの。最初はそれを許せなかった。母からお金を渡されてもいやだいやだと言った。でもそのうち母に言われる家事だって労働だからうんぬんに納得するようになってもらうことにした。今年の春くらいから。納得と罪悪感とは同居と思う。お金をもらうので、前よりももっと家事に対して責任というかしっかりちゃんとやらねばという思いが出るようになった。それが自分の役割だと。
まあそれでも叔母から「主婦なんかやってないで働きなさいよ」と言われたりするし、働けないからこんなことになってるのにと思って暴走したりするんだけど、まあ言うことはごもっともだと思う。でもそう言われたら私は否定されたと感じる。だから叔母はいやだと思うが、私も同じうお座として他者にそうゆうきついこと平気で言ってきてたかなとか考える。
私は何をおそれているのか?とずっと考えてもわからなかった。でもこないだぱっとわかったのが、自分ということだった。自分の弱さを一番におそれているなと思った。自分の無能さや、欠陥ぶりがこわいのだ。そうしたら、それは努力で埋めるしかないと思った。努力というものがどうゆうことか、わかった気がした。
それにしてもこの世の中だいじょうぶなのかしらんと思うのが、同い年の人たちに、私とおんなじような暮らしをしている人たちがどうやらっけっこういるようだ、ということ。母の会社の同僚の子どもや、東京にいたころの私や姉の小学校の同級生などに何人かいる。そんな話を母から聞く。5人くらいはいる。男の子でも、やはり私と同じように洗濯とか家事してっていう話だ。これって将来どうなるんだろうと思う。自分含めてだけど。色んな手助けする機関、人もあるとは思うんだけど、みんながみんなそこにうまく辿りつけるわけでもないだろうと思う。うーんまあ自分がどうにかならねば。